You need to be logged in to mark episodes as watched. Log in or sign up.
Season 2
<ラインナップ>
●794年 第50代・桓武天皇が平安京へ遷都。平安時代が始まる。
●旧仏教勢力排除へ。平安京内の寺院の建立を制限。
●797年 坂上田村麻呂が征夷大将軍に就任。
.. show full overview
<ラインナップ>
●794年 第50代・桓武天皇が平安京へ遷都。平安時代が始まる。
●旧仏教勢力排除へ。平安京内の寺院の建立を制限。
●797年 坂上田村麻呂が征夷大将軍に就任。 蝦夷討伐へ。
●804年 遣唐使船で最澄・空海が唐へ出発。最澄・空海とは?
<内容>
日本の古代史について紹介してきたこの番組、いよいよ中世の時代へと入ります。今回は、794年、平安時代の始まりとなる「平安京遷都」のお話から。実は、50代・桓武天皇は、長岡京をわずか10年ほどで断念し、平安京へ都を移しました。一体なぜ、この短期間で再び遷都を行ったのでしょうか?一方、平安京造営のウラでは、東北に住む蝦夷との戦いが繰り広げられていました。この時、征夷大将軍・坂上田村麻呂がとった驚きの作戦とは!?そんな中、最澄と空海が遣唐使船で唐へ向かいます。2人の目的とは、一体何だったのでしょうか?今回は「平安時代の幕開け」に迫ります
<ラインナップ>
●804年9月 最澄、空海の遣唐使船が唐に到着。二人の修業が始まる。
●806年3月 50代桓武天皇が崩御 その後、次々と続く天皇の代替わり。
●810年9月 嵯峨天皇と平城太上天皇がついに衝突。「平城太上天皇の変」
<内容>
今回は、平安京で朝廷と仏教が新たな関係を築いていく、9世紀の前半を紐解きます。唐に渡り新たな仏教を学んできた最澄
.. show full overview
<ラインナップ>
●804年9月 最澄、空海の遣唐使船が唐に到着。二人の修業が始まる。
●806年3月 50代桓武天皇が崩御 その後、次々と続く天皇の代替わり。
●810年9月 嵯峨天皇と平城太上天皇がついに衝突。「平城太上天皇の変」
<内容>
今回は、平安京で朝廷と仏教が新たな関係を築いていく、9世紀の前半を紐解きます。唐に渡り新たな仏教を学んできた最澄と空海。最澄の天台宗、空海の真言宗とはどのような仏教だったのでしょうか?そして帰国後の彼らの活動は?一方、第52代嵯峨天皇と先代の平城太上天皇の兄弟が対立。その背景には藤原氏の影が・・・。
<ラインナップ>
●842年 嵯峨太上天皇、崩御。朝廷内の権力争いが激化。
●858年 藤原良房が摂政に。摂関政治の始まり
●869年 現代の「祇園祭」の元になったと言われる「祇園御霊会」が行われる。
<内容>
今回は800年代半ば、藤原氏が摂関政治をはじめた時代をみていく。政治を安定させていた嵯峨太上天皇が崩御するや否や、朝廷内で権力争いが起こり、藤原良
.. show full overview
<ラインナップ>
●842年 嵯峨太上天皇、崩御。朝廷内の権力争いが激化。
●858年 藤原良房が摂政に。摂関政治の始まり
●869年 現代の「祇園祭」の元になったと言われる「祇園御霊会」が行われる。
<内容>
今回は800年代半ば、藤原氏が摂関政治をはじめた時代をみていく。政治を安定させていた嵯峨太上天皇が崩御するや否や、朝廷内で権力争いが起こり、藤原良房がライバルを排除。そして、自分の9歳の孫を天皇に即位させ、代わって政務を行う摂政に就任し、実権を握ることになる。摂政の地位は息子の基経に引き継がれ、その後55歳の天皇が即位すると、政務を補佐する関白に就任。藤原氏による摂関政治体制が確立する。一方この頃、嵯峨野や清水寺、桜の花見といった現在に続く京文化が生まれる。また、地震や噴火といった自然災害、赤痢やインフルエンザといった疫病が流行。その原因はこの世に思いを残した人々の霊のしわざであると考えられ、その霊を鎮めるための祭事、祇園御霊会が行われる。この御霊会がやがて毎年の祭りとなり、祇園祭と呼ばれるようになって、今日まで引き継がれる。
<ラインナップ>
●60代・醍醐天皇が菅原道真を大宰府に左遷
●その菅原道真の死後から、皇族や貴族が相次いで死去。
祟りと恐れた朝廷は、「北野天満宮」建立
●「古今和歌集」編さんされ、平仮名が利用されるように。
<内容>
今回は800年代終わりから900年代初頭、稀代の秀才と言われる菅原道真と宇多天皇の政治を中心に見ていく。891年、絶大な権力を誇った
.. show full overview
<ラインナップ>
●60代・醍醐天皇が菅原道真を大宰府に左遷
●その菅原道真の死後から、皇族や貴族が相次いで死去。
祟りと恐れた朝廷は、「北野天満宮」建立
●「古今和歌集」編さんされ、平仮名が利用されるように。
<内容>
今回は800年代終わりから900年代初頭、稀代の秀才と言われる菅原道真と宇多天皇の政治を中心に見ていく。891年、絶大な権力を誇った藤原基経が亡くなると、宇多天皇は、天皇自ら政治を行う天皇親政を目指す。その時抜擢したのが、中流貴族で学者でもあった菅原道真だった。菅原道真の業績として知られる遣唐使派遣停止の提言。その背景にあった意外な朝廷内の陰謀を紹介。宇多天皇が子供の醍醐天皇に譲位すると、道真は大宰府に左遷される。その裏にあった藤原時平(基経の子)の策略とは。死後、皇族や貴族に災いが重なると、道真の怨霊の祟りとして人々は恐れた。怨霊として恐れられた道真だが、やがて学問の神として日本人に親しまれるようになる。なぜ道真は学問の神になったのか、その経緯を紹介。
<ラインナップ>
●939年~ 初の武士の反乱「平将門の乱」
●同年12月、西でも「藤原純友の乱」が勃発し、武士の時代を予感させる出来事が続いた
●969年「安和(あんな)の変」が勃発
藤原氏は最後の「他氏排斥」完了させ敵対勢力をなくし栄華へと歩みだす。
<内容>
今回は、2人の武士が起こした反乱を中心にお届けします。939年、平将門が関東地域の拠点を次々と占領する「平将門の乱」が勃発。これは、武士による初めての朝廷への反乱となったわけですが、将門の狙いは何だったのでしょう?さらに、同時期に、瀬戸内海を中心に「藤原純友の乱」が勃発します。東の将門、西の純友、東西に挟まれた平安京で、朝廷は、どのように対抗したのでしょうか?2つの反乱は、武士の時代の到来を予感させる象徴的な出来事でした。その背景に迫ります。
藤原氏の中でも“平安時代で最大の権力”を持ったと言われる藤原道長。
道長が藤原家のトップになるまでをたどる。
●986年~ 藤原氏の強引な策略で天皇が交代?
●993年~ 陰陽師・安倍晴明が登場、66代一条天皇の病を治す。
●994年〜 天然痘が大流行。
●995年~ 天然痘により、藤原道兼ら序列五位以上の貴族67人が死亡。
この時、生き残ったのが藤原道長だった。道長は後に、関白に近い役職である「内覧」に就任。
藤原氏の中でも“平安時代で最大の権力”を持ったと言われる藤原道長。
道長が藤原家のトップになるまでをたどる。
●986年~ 藤原氏の強引な策略で天皇が交代?
●993年~ 陰陽師・安倍晴明が登場、66代一条天皇の病を治す。
●994年〜 天然痘が大流行。
●995年~ 天然痘により、藤原道兼ら序列五位以上の貴族67人が死亡。
この時、生き残ったのが藤原道長だった。道長は後に、関白に近い役職である「内覧」に就任。
<ラインナップ>
藤原道長は自身の娘を次々と天皇家に嫁がせることで、その権力は絶頂期を迎える。
●1000年 まず道長は、長女・彰子(13)を66代・一条天皇(21)に嫁がせる。この時一条天皇は、定子と彰子、二人の皇后を持つことに。
●1008年 道長の長女である皇后・彰子は親王を出産。
●1010年 道長は次に、二女・姸子(17)を居貞親王に嫁がせる。
●1
.. show full overview
<ラインナップ>
藤原道長は自身の娘を次々と天皇家に嫁がせることで、その権力は絶頂期を迎える。
●1000年 まず道長は、長女・彰子(13)を66代・一条天皇(21)に嫁がせる。この時一条天皇は、定子と彰子、二人の皇后を持つことに。
●1008年 道長の長女である皇后・彰子は親王を出産。
●1010年 道長は次に、二女・姸子(17)を居貞親王に嫁がせる。
●1018年 さらに道長は、三女・威子(19)を68代・後一条天皇に嫁がせる。
これにより、道長の娘3人は皇后、皇太后、大皇太后という「三后」の地位を独占し、道長の「権力独占」が確立する。
<内容>
今回は、藤原道長が権力を独占していく1000年からの20年間を詳しく見ていく。道長は自分の娘を次々と天皇家に嫁がせることで影響力を強めていった。そうした出来事が記されているのが、現存する世界最古の自筆日記と言われる道長の「御堂関白記」だ。日記には娘の結婚、宮中行事の「相撲」など、当時の貴族の生活を垣間見ることができる。道長は権力を独占すると「この世は我が世…」と歌を詠んだが、歌に込めた意味とは?貴族文化が繫栄する中、登場するのが、平安時代を代表する女流作家・清少納言と紫式部だ。ライバルともいわれる二人の関係は実際はどうだったのか。そして華やかな貴族文化とは対照的な庶民の暮らしぶりは…。
<ラインナップ>
藤原摂関家が少しずつ勢力が弱まり、日本全体を治めるためには貴族の力では厳しくなってきた。
武士の力がいよいよ大きくなっていき「貴族」の時代から「武士」の時代へ移り変わってい行く 。
●1027年 藤原道長 が62歳で死去
●その半年後、上総で「平忠常の乱」が起こるが、朝廷の命を受けた源頼信が遠征し鎮圧。
●1051年
.. show full overview
<ラインナップ>
藤原摂関家が少しずつ勢力が弱まり、日本全体を治めるためには貴族の力では厳しくなってきた。
武士の力がいよいよ大きくなっていき「貴族」の時代から「武士」の時代へ移り変わってい行く 。
●1027年 藤原道長 が62歳で死去
●その半年後、上総で「平忠常の乱」が起こるが、朝廷の命を受けた源頼信が遠征し鎮圧。
●1051年 前九年の役
これを治めた清原武則は、蝦夷を抑える鎮守府将軍に。源義家は出羽守に就任
●1083年 後三年の役
前九年の役に勝利し東北を手にいれた清原武則、その孫である清原真衡、家衡、清衡が内紛を起こす。この争いに源義家が介入し清原清衡を支援、清衡が生き残ることに。
<内容>
武士の勢力が拡大し、隆盛を誇った平安貴族の力は急速に衰えていく時代の転換期を紐解きます。1038年、比叡山延暦寺の僧侶が武装し、朝廷に押し掛けるというかつてない行動に出ます。本来、仏の道を学ぶ僧侶が、なぜ武装し、何を求めたのでしょう?1052年、藤原道長の長男・頼通は京都の宇治にあった別荘を寺に変え、平等院と名付けます。権力争いを生き抜いた藤原摂関家の長(ちょう)が あえて「平等」という言葉を使った理由とは?1063年、頼朝の祖先である源頼義(よりよし)が鎌倉の由比ガ浜に八幡宮を建立。後の鶴岡八幡宮へとつながっていきます。西国に拠点を置いていた源氏がなぜ、鎌倉の地を選んだのでしょうか?そのころ、源氏は東北で豪族が起こした紛争を武力で平定します。その結果、平定に協力した東国武士との信頼関係が深まり、源氏は一大勢力へと成長。やがて、この勢力は奥州藤原氏に繋がっていくのですが、その経緯とは?
<ラインナップ>
藤原摂関家とは決別し、上皇、法王などが政治を動かしていく「院政」が始まる
●1086年 72代・白河天皇が8歳の堀河天皇に譲位
白河院となり 43年間続く「 白河院政
.. show full overview
<ラインナップ>
藤原摂関家とは決別し、上皇、法王などが政治を動かしていく「院政」が始まる
●1086年 72代・白河天皇が8歳の堀河天皇に譲位
白河院となり 43年間続く「 白河院政 」時代の幕開け
●1029年 白河院が崩御し、「鳥羽院政」が始まる
●1132年 伊勢平氏が躍進。平忠盛(清盛の父)が「昇殿」を許される。
<内容>
今回は、「院政」を開始した白河院の時代を紐解きます。1086年11月、白河天皇は、8歳の息子・堀河天皇に譲位し、白河院として自ら政治を行う「院政」を開始します。果たして、「白河院政」の実態とは、どのようなものだったのでしょうか?そんな中、東北の平泉では、奥州藤原氏による豪華絢爛な黄金文化が花開きます。なぜ、奥州藤原氏は、東北の地で栄華を極めることができたのでしょうか?一方、この頃、武士の一族「平氏」が「院」に急接近します。のちの源平合戦へとつながる、平氏繁栄の裏側に迫ります。
<ラインナップ>
武士の力を見せつけることとなった「保元の乱」と「平治の乱」を紐解いていく。
●1155年 第77代後白河天皇が即位、このことが騒乱の引き金に
●1156年 「保元の乱」第77代後白河天皇と崇徳上皇の対立
●1158年 後白河天皇が譲位し第78代二条天皇が即位
●1159年 藤原氏と源氏によるクーデターがきっかけとなった「平治の乱」
<内
.. show full overview
<ラインナップ>
武士の力を見せつけることとなった「保元の乱」と「平治の乱」を紐解いていく。
●1155年 第77代後白河天皇が即位、このことが騒乱の引き金に
●1156年 「保元の乱」第77代後白河天皇と崇徳上皇の対立
●1158年 後白河天皇が譲位し第78代二条天皇が即位
●1159年 藤原氏と源氏によるクーデターがきっかけとなった「平治の乱」
<内容>
今回は、2つの乱を通して武士の力が、どのように強まっていったのかを紐解きます。崇徳上皇が復権を狙い後白河天皇と対立した「保元の乱」では、源氏と平氏はそれぞれ一族が二分されて天皇方、上皇方について戦いました。勝った天皇方についたのが源義朝、平清盛。彼らはどんな活躍をしたのでしょうか?また、後白河天皇の勝利に一役買っていたのが側近の信西でした。信西の果たした役割とは?そして信西を巡って「平治の乱」が起こります。大逆転劇を見せた乱の顛末は?
~中世史おさらい 前編~
●794年 桓武天皇による平安京遷都
●850年代~ 藤原家による摂関政治の始まり
●891年 菅原道真の「大抜擢」…背景に何が?
●1018年~ 藤原道長の全盛期…平安貴族の暮らしとは
●1068年 藤原家の衰退
<内容>
番組はいよいよ源平の戦いが始まり、貴族の時代から武士の時代へと突入して行く。その新しい時代に
.. show full overview
~中世史おさらい 前編~
●794年 桓武天皇による平安京遷都
●850年代~ 藤原家による摂関政治の始まり
●891年 菅原道真の「大抜擢」…背景に何が?
●1018年~ 藤原道長の全盛期…平安貴族の暮らしとは
●1068年 藤原家の衰退
<内容>
番組はいよいよ源平の戦いが始まり、貴族の時代から武士の時代へと突入して行く。その新しい時代に入る前に、今回は改めて、これまでの中世史をおさらいする「特別編」。今回はその前半。天皇家と、絶大な権力を誇った藤原氏との関係を中心に見ていく。藤原氏はどのようにして摂関政治を完成させていったのか。藤原氏から離れ、天皇親政を目指す宇多天皇は菅原道真を重用したが…藤原氏はどのようにして道真を排除したのか。藤原道長の時代に摂関政治は絶頂を迎え、争いがなくなると、貴族文化が繁栄した。この時に登場するのが、平安時代を代表する女流作家・清少納言と紫式部だ。平安貴族の暮らしぶりとは、どのようなものだったのか。
~中世史おさらい 後編~
●800年代~ 多くの皇子が誕生し、皇族を離れ「源平」が誕生
●939年 初の武士の反乱「平将門の乱」が勃発
●1156年 「保元の乱」で天皇家の諍いを武士が決着、武士が中央政界進出
●1159年 「平治の乱」で平家が朝廷の中心に
<内容>
今回は、平安時代のこれまでを振り返る特別編の後半。番組は、いよいよ「源平の戦い」に入って
.. show full overview
~中世史おさらい 後編~
●800年代~ 多くの皇子が誕生し、皇族を離れ「源平」が誕生
●939年 初の武士の反乱「平将門の乱」が勃発
●1156年 「保元の乱」で天皇家の諍いを武士が決着、武士が中央政界進出
●1159年 「平治の乱」で平家が朝廷の中心に
<内容>
今回は、平安時代のこれまでを振り返る特別編の後半。番組は、いよいよ「源平の戦い」に入っていきますが、その前に源氏と平氏の誕生の経緯をおさらい。そもそも「源平の戦い」で対立することとなる源氏と平氏とは、どのようにして誕生したのか?そして、武士は、どう力をつけ、政権の中枢へと近づいていったのか?「武士の時代」への移り変わりに迫ります。
<ラインナップ>
●1167年 平清盛 太政大臣になる。平清盛をトップとする平家の躍進。
平家は、日宋貿易で得た経済力と軍事力を背景に、朝廷に絶大な影響力を及ぼす。
●1177年 反清盛派の平家打倒計画。鹿ケ谷の謀議
後白河法皇と平清盛が対立する。
●1179
.. show full overview
<ラインナップ>
●1167年 平清盛 太政大臣になる。平清盛をトップとする平家の躍進。
平家は、日宋貿易で得た経済力と軍事力を背景に、朝廷に絶大な影響力を及ぼす。
●1177年 反清盛派の平家打倒計画。鹿ケ谷の謀議
後白河法皇と平清盛が対立する。
●1179 年、清盛はクーデターを決起。
後白河法皇を鳥羽離宮に幽閉し、政治力を奪う。これにより、清盛の独裁体制(平氏政権)ができあがる。
●承和3年の政変 平家政権確立。
<内容>
1160年、朝廷内の勢力争い、平治の乱で源氏を京から追放した平清盛は、その功績を認められ、武家として初めて朝廷に仕える公卿となる。ここから清盛は異例の出世を果たし、わずか7年で天皇に次ぐ地位の太政大臣に就任。朝廷は平家一門が多く占めるようになり、「平家にあらずんば人にあらず」とまでいわれた栄華を誇るようになる。平家の繁栄を支えた背景には、清盛が手掛けた国家規模のビジネスがあった。はたしてそのビジネスとは、一方、平治の乱で政治力が弱まった後白河院は、強引な政治工作を行い、次第に復権していく。権力に執着する後白河院は、勢力を拡大してきた平家に危機感を抱き、そのトップ、清盛と敵対するようになる、後白河院は平家打倒を計画するが、失敗。すると今度は清盛が軍事力を背景にクーデターを実行。後白河院を幽閉し、朝廷から反清盛派を一掃して平家政権を確立する。
<ラインナップ>
●1180 年2月、平清盛の孫・第 81 代安徳天皇(3 歳)が即位し、平清盛の独裁体制が強化。
●1180 年4月、以仁王(後白河天皇の第三皇子)が「以仁王の令旨」を発布し、平家打倒の狼煙をあげる。しかし、反対派がこのことを平氏に密告、宇治橋の合戦で以仁王は敗れることに。
●1180年8月、ついに源頼朝が伊豆で挙兵するが「石橋山の戦い」で平氏に敗れ、頼朝は海路で安房国に逃れる。その後、朝廷は『頼朝追討の命令』を出して頼朝を追いこもうとするが、全国の豪族たちは、平氏を打倒するべく次々と挙兵していく。
<内容>
今回は、平清盛の独裁に対し世の不満が高まり、1180年8月、ついには源頼朝が挙兵するまでの約半年間を紐解く。後白河院を鳥羽離宮に幽閉し、その政治力を奪って独裁を完成させていた平清盛は、1180年2月、孫にあたる第81代安徳天皇を即位させる。これによって清盛は天皇の祖父になり独裁体制は強化される。すると皇族の不満が爆発。1180年4月、後白河院の皇子、以仁王が東国の源氏や有力寺社に、平家打倒の挙兵の令旨(皇族の命令)を出すことに。その令旨は、1159年に起こった平治の乱の敗戦し伊豆に流されていた源頼朝のもとにも届く。頼朝の、流されてから令旨を受け取るまでの20年に及ぶ流人生活はどのようなものだったのか、そして頼朝が挙兵するまでの経緯を詳しく紹介。頼朝の挙兵によって、以降5年に及ぶ源平合戦がはじまるが、その緒戦の意外な結果をみていく。
<ラインナップ>
いよいよ頼朝の邸宅が鎌倉に誕生。その一方で、平家では清盛が死去。
●安房国に逃れていた頼朝は、兵力を約4万騎に拡大しながら10月鎌倉入り
●10月に源氏と平氏が富士川の戦いで激突
●12月、鎌倉に頼朝の邸宅が完成
.. show full overview
<ラインナップ>
いよいよ頼朝の邸宅が鎌倉に誕生。その一方で、平家では清盛が死去。
●安房国に逃れていた頼朝は、兵力を約4万騎に拡大しながら10月鎌倉入り
●10月に源氏と平氏が富士川の戦いで激突
●12月、鎌倉に頼朝の邸宅が完成 。これを「鎌倉殿」と呼んだ。
●平氏軍は「南都焼き討ち」を行い、東大寺などが焼失。
●1181年、平清盛が64歳で死去。
<内容>
今回は、「源平の戦い」の最中、源頼朝が「鎌倉殿」となる経緯を見ていきます。「石橋山の戦い」で敗れ安房に逃れた頼朝は、関東の豪族らに平家打倒を呼びかけながら勢力を集め、鎌倉に入る。しかし、なぜ初戦で敗れた頼朝に、多くの豪族が集まってきたのか?そして、次の「富士川の戦い」で平家軍と再び激突します。実は、この戦い、予想外の結末を迎えるのですが、それは一体!?「富士川の戦い」の翌日には、頼朝の弟・義経が戦いに合流。今に伝えられている2人の対面の様子とは?
<ラインナップ>
木曽義仲が活躍しながらも、次第に衰退していく時代。その一方で頼朝や義経の力が強まっていく。
●1183年5月 木曽義仲が「倶利伽羅峠の戦い」で平家の大軍を撃破し、京へ進軍。
●7月
.. show full overview
<ラインナップ>
木曽義仲が活躍しながらも、次第に衰退していく時代。その一方で頼朝や義経の力が強まっていく。
●1183年5月 木曽義仲が「倶利伽羅峠の戦い」で平家の大軍を撃破し、京へ進軍。
●7月 安徳天皇と平家一門は、3種の神器を持って都落ち。翌月、京都に残った後白河院は、後鳥羽天皇を4歳で即位させる。“神器なし”での異例の即位であり、一時的に天皇が2人存在する状況となった。
●閏10月 「水島の戦い」にて木曽義仲軍は平氏軍に敗れる。
●追い詰められた木曽義仲は京に戻り、今度は頼朝を倒すべくクーデターを起こすが、1184年1月「宇治川の戦い」にて源義経によって討伐される。
<内容>
今回は、源平の戦いが激しさを増す中で登場した、頼朝のライバル・木曽義仲の活躍を中心に紐解きます。「倶利伽羅峠の戦い」では数の上で不利な木曽義仲でしたが、ある奇策で平家軍に勝利します。その戦略とは?勢いに乗る義仲が京に迫ると平家は都落ち。なぜ京の都を離れたのでしょうか?後白河院は京から平家を追い出した義仲よりも頼朝を高く評価しました。その背景は?そして「水島の戦い」で敗北し、次第に追い詰められた義仲は、クーデターを決行します。その顛末は?
<ラインナップ>
京都から西国へ都落ちした平家を源義経が追討し、「一ノ谷の合戦」「屋島の合戦」と次々に勝利していく。
●1184年1月、後白河院が平家追討の院宣を頼朝に下すと、翌月「一ノ谷の戦い」が起こる。
「
.. show full overview
<ラインナップ>
京都から西国へ都落ちした平家を源義経が追討し、「一ノ谷の合戦」「屋島の合戦」と次々に勝利していく。
●1184年1月、後白河院が平家追討の院宣を頼朝に下すと、翌月「一ノ谷の戦い」が起こる。
「 鵯越の逆落とし」では、平家は大混乱に陥り、海へ敗走。義経の大勝となった。
●同年8月、義経が頼朝の許可なく、後白河院から検非違使の任を受けることに。これを嫌った頼朝は、平家追討作戦から義経を外す。
●1185 年 義経が後白河院の許可により平家追討に復帰。「屋島の戦い」では奇襲作戦を仕掛け、混乱した平家軍は船で海上へ、しかし、その後源氏軍が少数だと気づくと両者にらみ合いとなった。
<内容>
今回は1184年を中心に詳しく見ていく。カギを握る人物は源義経だ。流れを源氏に大きく傾けたと言われる「一ノ谷の戦い」で義経は「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」を決行、平家軍背後の断崖を馬で駆け下り、急襲することで戦いに勝利した…とされてきた。ところが近年、義経は鵯越の逆落としをしていないのでは、と言われるようになっている。その真相とは?連戦連勝する義経の戦い方とはどんなものだったのか。そして兄・頼朝との間に微妙なすれ違いが生まれたのはなぜか。さらに、強力な援軍「熊野水軍」が源氏方に付いた。なぜ源氏に加勢すると決めたのだろうか。源平の合戦の流れが大きく源氏に傾いた1年を詳しく見ていく。
<ラインナップ>
1185 年 3 月 24 日『壇ノ浦の戦い』。本州最西端・関門海峡まで追い詰められた平家が源義経率いる源氏と最終決戦に臨む。
●壇の浦の戦いの10日前、鎌倉の源頼朝が源範頼に「安徳天皇の保護」と「三種の神器の確保」を指令。
●3月22日 源氏(源義経)軍が周防を出陣。翌23日 平家軍
.. show full overview
<ラインナップ>
1185 年 3 月 24 日『壇ノ浦の戦い』。本州最西端・関門海峡まで追い詰められた平家が源義経率いる源氏と最終決戦に臨む。
●壇の浦の戦いの10日前、鎌倉の源頼朝が源範頼に「安徳天皇の保護」と「三種の神器の確保」を指令。
●3月22日 源氏(源義経)軍が周防を出陣。翌23日 平家軍 彦島を出陣。
●3月24日「壇ノ浦の戦い」両軍が徐々に近づき、矢が届く距離まで近づいたところで平家軍が攻撃開始。潮流が東向きだったため序盤は平家が優勢となり、源氏軍を押し込む。しかし次第に潮流が西向きへと変わり源氏が優勢となる。
●4月11日 鎌倉の源頼朝「平家滅亡」の報告を受ける。
<内容>
今回は、いよいよ源平最後の決戦、「壇ノ浦の戦い」です。1185年3月24日、現在の関門海峡ちかくの壇ノ浦。ここで日本の歴史を占う海戦が行われます。義経はこの時驚くべき戦術を繰り広げます。それはどんなものだったのでしょう?壇ノ浦の戦いは、これまで東西に入れ替わる潮の流れの変化が、源平それぞれの戦い方や勝敗に大きな影響を及ぼしたと言われてきました。しかし、最近、その定説を覆す新たな研究が注目を浴びています。「還流」説と呼ばれる、その新たな説とはどういうものなのでしょうか?
<ラインナップ>
源頼朝と義経の確執は深まり、やがて決別へ。義経は追い込まれていく。
●1185年5月 「壇ノ浦の戦い」で勝利した源義経は捕虜を連れて鎌倉に凱旋することに。しかし、朝廷から検非違使の任を義経が勝手に受けたことや、梶原景時からは「義経の独断専行ぶり」が頼朝に報告され、二人の関係は悪化する。その結果、頼朝は「義経の鎌倉入りを許さない」という判断を下す。
.. show full overview
<ラインナップ>
源頼朝と義経の確執は深まり、やがて決別へ。義経は追い込まれていく。
●1185年5月 「壇ノ浦の戦い」で勝利した源義経は捕虜を連れて鎌倉に凱旋することに。しかし、朝廷から検非違使の任を義経が勝手に受けたことや、梶原景時からは「義経の独断専行ぶり」が頼朝に報告され、二人の関係は悪化する。その結果、頼朝は「義経の鎌倉入りを許さない」という判断を下す。
●義経は弁明のため「腰越状」を送るも頼朝には無視され、帰京を命じられる。
これに反発した義経は後白河院に働きかけ、後白河院は頼朝追討の院宣を発する。
二人の対立は益々激しくなっていく。
●1185年11月 頼朝の圧力を受けていた後白河院は一転し、今度は「義経追討」の院宣を発する。
●義経は都落ちし、 長い逃亡生活へ。
●1189年 藤原泰衡が源義経を急襲し、追い詰められた義経は自害。平泉に散る。
<内容>
「壇ノ浦の戦い」の勝利後、源義経は鎌倉へ凱旋しようとするが頼朝はこれを認めず。一体なぜ、頼朝は義経の鎌倉入りを許さなかったのか?頼朝から拒まれた義経は一転、兄との戦いを決意。しかし、義経の元に多くの兵は集まりませんでした。義経が敬遠されたその理由とは?やがて東北の奥州平泉に逃れた義経だったが、藤原泰衡に裏切られ、この地で自害。31歳の若さで亡くなった義経の最期に迫ります。
<ラインナップ>
源頼朝が奥州藤原氏の征伐へと動き、頼朝は全国制覇を成し遂げる。その後、上洛して後白河院との会談へ臨む。
●1189年7月 頼朝は28万4千騎の大軍で奥州を征伐し、全国制覇を成し遂げる。
●1190年11月 およそ一千騎の兵を引き連れ、挙兵後初めてとなる上洛を果たす。
●1192年 後白河院が崩御。頼朝は遂に“征夷大将軍”に任命される
●119
.. show full overview
<ラインナップ>
源頼朝が奥州藤原氏の征伐へと動き、頼朝は全国制覇を成し遂げる。その後、上洛して後白河院との会談へ臨む。
●1189年7月 頼朝は28万4千騎の大軍で奥州を征伐し、全国制覇を成し遂げる。
●1190年11月 およそ一千騎の兵を引き連れ、挙兵後初めてとなる上洛を果たす。
●1192年 後白河院が崩御。頼朝は遂に“征夷大将軍”に任命される
●1193年5月 曾我兄弟の仇討ち事件が、頼朝暗殺未遂へと発展か。
●1193年8月 頼朝は、弟の範頼を追放する
<内容>
奥州藤原氏を征伐し全国を制覇した頼朝は、征夷大将軍の役職を与えられ、国づくりを進めていきます。今回は、武家政権として全国をまとめた頼朝の目指した国の形や政治手法を紐解きます。
<ラインナップ>
鎌倉殿の 13 人による政治が始まるが、実権を握ろうとする北条時政と2代鎌倉殿・頼家を支持する梶原景時、比企能員との抗争がぼっ発していく。
●1198年12月、源頼朝は、相模川橋の落成式に出席した道中で落馬。この二週間後に急死する。
●その後、長男・頼家が2代鎌倉殿になるも政務に熱心ではなかったため、13人による合議制の政治がはじまる。そして、頼家を支持する御家人と 実権を握ろうとする北条との対立がどんどん深まっていく。
●1199年11月、梶原景時の変が起こる。1203年5月、頼家は頼朝の弟・阿野全成を追放。さらに1203年9月、比企能員の変が起こる。
●北条政子が頼家に引導を渡し、頼家は将軍の座を追われることに。弟・実朝が3代将軍に就き、北条時政が執権に就任する。
<内容>
日本初の武家政権・鎌倉幕府を成立させた源頼朝が53歳で急死。歴史書「吾妻鏡」には、頼朝の死の前後3年間の記録がなく、死因や状況が謎とされている。果たして頼朝の死因とは?頼朝の跡を継いだのは、18歳の長男、頼家。しかし、この若い鎌倉殿に頼朝の代から仕えていた御家人たちから不満が噴出し、頼家はわずか3か月で実権をはく奪される。代わって政治を取り仕切ったのが、「鎌倉殿の13人」。その顔ぶれとは。しかし、13人の中で、頼家を支持ずる御家人と、実権を握ろうとする北条家の間で主導権争いが起こり、謀略と暗殺の末に、頼家は失脚。弟の実朝が3代将軍となり、北条時政が将軍に代わって政務を仕切る執権となって、実権を握ることになる。そしてそれまで表舞台に立つことがなかった北条政子が、政治に関わるようになっていく。一方、失脚した頼家は伊豆に幽閉されるが、彼もまた非業の死を遂げることになる。
<ラインナップ>
「北条時政を中心とする陣営」には、時政の後妻である「牧の方」、そして、時政の娘婿である「平賀朝政」がいた。そして、時政の息子である「北条義時の陣営」には、「義時の姉・政子」と時の将軍「源実朝」がいた。この両陣営が激しく対立し、次第に義時が頭角を現していくことになる。
●1205年 北条時政は畠山重忠が謀反を企てているというあらぬ疑いをかけ、重忠を討
.. show full overview
<ラインナップ>
「北条時政を中心とする陣営」には、時政の後妻である「牧の方」、そして、時政の娘婿である「平賀朝政」がいた。そして、時政の息子である「北条義時の陣営」には、「義時の姉・政子」と時の将軍「源実朝」がいた。この両陣営が激しく対立し、次第に義時が頭角を現していくことになる。
●1205年 北条時政は畠山重忠が謀反を企てているというあらぬ疑いをかけ、重忠を討伐する。すると、これがきっかけとなり時政と義時の「親子の対立」が激化していく。
●さらに時政は、三代将軍実朝を失脚させようと画策。これに反発した義時は、実朝を保護し、政子と共に時政を追い込んで出家させ伊豆に追放した。
●1213 年 北条義時は「鎌倉の13人」最後の有力者である和田義盛を粛清。(和田合戦)
●北条義時は“政所別当”“侍所別当”の役職も手にいれ名目上の政権トップとなる
<内容>
今回は鎌倉殿の13人の争いの最終章。13人の中から北条時政が執権となり実権を握るが、子である義時と激しく対立していく。きっかけとなったのは、1205年、北条時政が有力御家人で畠山重忠を謀殺した事件。時政は後妻である牧の方の告げ口によって無実の畠山重忠を粛清する。しかし、それに対して子の北条義時と御家人たちが反発。さらに時政と牧の方は、政子の子である3代将軍実朝を廃し、自分たちの娘婿を将軍にしようと画策。政子と義時によって実朝は守られ、時政は伊豆に追放される。義時が2代執権になり、政子と姉弟の政権ができあがる。すると1213年、義時は、鎌倉殿の13人の中の最後のライバル和田義盛と争いになる。なぜ、二人は争うことになったのか、義時の謀略だったと疑われる、その経緯を詳しくみていく。
<ラインナップ>
1219年1月、3代将軍・実朝が暗殺される。鎌倉幕府は藤原摂関家より、2歳の三寅を迎え、大きくなるまでは政子が尼将軍として義時を補佐することになった。
後鳥羽上皇が執権・北条義時追討の院宣を出し、「朝廷」対「鎌倉幕府」の「承久の乱」が始まる。
●1219年1月 3代将軍・源実朝(28)が暗殺される。
●1221年4月 朝廷側が体制強化へ
.. show full overview
<ラインナップ>
1219年1月、3代将軍・実朝が暗殺される。鎌倉幕府は藤原摂関家より、2歳の三寅を迎え、大きくなるまでは政子が尼将軍として義時を補佐することになった。
後鳥羽上皇が執権・北条義時追討の院宣を出し、「朝廷」対「鎌倉幕府」の「承久の乱」が始まる。
●1219年1月 3代将軍・源実朝(28)が暗殺される。
●1221年4月 朝廷側が体制強化へ “上皇3人”に…。その中の一人、順徳天皇が義時追討計画を進める。
●1221年5月 後鳥羽上皇が「義時追討」の院宣を出す。
●朝廷と幕府の争いとなる「承久の乱」がいよいよ始まる。
<内容>
1219年1月、鎌倉で3代将軍・源実朝が、甥の公暁に暗殺されます。実はこの事件、黒幕がいたと言われているのですが、一体、誰だったのでしょうか?将軍暗殺で幕府が混乱する中、後鳥羽上皇が「北条義時追討」の院宣を発し、挙兵します。こうして、朝廷と鎌倉幕府が激突する「承久の乱」へと発展するのですが、朝廷と対立することになった義時は、どのように御家人たちをまとめ、戦いに立ち上がったのでしょうか?今回は、義時が幕府の実権を握る中、朝廷と対決する「承久の乱」勃発前夜までを紐解きます。
<ラインナップ>
●1221年5月29日「承久の乱・初戦」は、なぜか北陸だった。その理由とは。
●1221年6月5日 上皇軍と幕府軍は「美濃・尾張の戦い」で全面衝突するも、上皇軍は矢を放つことなく敗走。御所はその後パニックとなる。
●6月13日、14日 「瀬田・宇治川の戦い」が起こり、幕府軍は時に強行突破に出るなど攻勢に出て、開戦1か月で後鳥羽上皇は降伏。上皇はそ
.. show full overview
<ラインナップ>
●1221年5月29日「承久の乱・初戦」は、なぜか北陸だった。その理由とは。
●1221年6月5日 上皇軍と幕府軍は「美濃・尾張の戦い」で全面衝突するも、上皇軍は矢を放つことなく敗走。御所はその後パニックとなる。
●6月13日、14日 「瀬田・宇治川の戦い」が起こり、幕府軍は時に強行突破に出るなど攻勢に出て、開戦1か月で後鳥羽上皇は降伏。上皇はその後、隠岐に配流となる。
●1224年6月13日 北条義時 死去。その死の真相は・・・
●1225年7月11日 多くの人に慕われた“尼将軍・北条政子”がついに死去
<内容>
承久の乱が始まり、幕府軍は北陸道、東山道、東海道の三方から京を目指し、各地で勝利を収めていきます。どのような戦いだったのでしょうか。圧倒的な戦力で承久の乱に勝利した幕府は朝廷に厳しい処置を行い、後鳥羽上皇を配流にします。配流先での生活とは?承久の乱の3年後、北条義時が亡くなります。妻による毒殺説もささやかれていますが、その真相は?
<ラインナップ>
日本が初めて外国から本格的な侵攻にさらされたモンゴル襲来。
今回は「文永の役」に焦点を当てる。
●1230年 モンゴル帝国が次々と「領土」を拡大し、「金」「高麗」に侵攻を開始する
●1260年 フビライ・ハンがモンゴル帝国第5代の皇帝に即位
●1268年1月
.. show full overview
<ラインナップ>
日本が初めて外国から本格的な侵攻にさらされたモンゴル襲来。
今回は「文永の役」に焦点を当てる。
●1230年 モンゴル帝国が次々と「領土」を拡大し、「金」「高麗」に侵攻を開始する
●1260年 フビライ・ハンがモンゴル帝国第5代の皇帝に即位
●1268年1月 モンゴル帝国フビライ・ハンの国書が大宰府に到着。
この書を見た公家や武家は驚き、すぐに協議に入るが、これを無視することに。
●翌年・翌々年にも国書が届くが、北条時宗はこれも無視。
●1274年 10月モンゴル・高麗連合軍が日本を襲撃。
日本軍は苦戦し 博多への上陸を許すも、10月20日突如「元」と「高麗」の連合軍は撤退する。
<内容>
今回はモンゴルから大軍が日本を襲う、いわゆる元寇・文永の役を中心にお送りする。1200年代、モンゴル帝国は世界最大と言われるほど領土を拡大していた。モンゴル帝国の強さはどこにあったのだろうか。この頃、日本では北条家が代々の執権を独占していた。そうした政権のもと制定されたのが「御成敗式目」だ。その後の日本に大きな影響を与えたという「武士の法律」。一体どういったものなのだろうか。モンゴル帝国は国名を「元」に変え日本を襲う。日本の武士は元軍の戦い方にとまどい、「てつはう」といった未知の武器に苦戦する。だが元軍は一夜にして姿を消した。これまでは「台風に襲われ撤退していった」とされてきたが、最近ではﻩ台風は無かったと言われはじめている。元軍はなぜ消えたのだろうか。
<ラインナップ>
元のフビライ・ハンによる 2 度目のモンゴル襲来「弘安の役」
●1275年 8代執権・北条時宗(24)がフビライ・ハンの使者を斬首
●北条時宗は「文永の役」の経験から、元軍に上陸を許さぬよう博多湾に防塁を作る
●1279年 「元」のフビライ・ハン(64)が南宋を滅ぼす
●1281年5月
.. show full overview
<ラインナップ>
元のフビライ・ハンによる 2 度目のモンゴル襲来「弘安の役」
●1275年 8代執権・北条時宗(24)がフビライ・ハンの使者を斬首
●北条時宗は「文永の役」の経験から、元軍に上陸を許さぬよう博多湾に防塁を作る
●1279年 「元」のフビライ・ハン(64)が南宋を滅ぼす
●1281年5月 モンゴル襲来再び。2度目の元寇「弘安の役」が始まる。
●東路軍に江南軍が合流し、日本軍は危機を迎えるが、その時、神風が起こる。
<内容>
今回は、2度目の元寇「弘安の役」。元の14万の軍勢が、4千を超える船で日本に攻め入る、当時史上最大の対外戦争を紐解きます。1275年、「文永の役」の翌年、フビライ・ハンが、日本に使者を送ってきます。しかし、8代執権・北条時宗は全員を処刑。時宗は、なぜそこまで強硬な処分をしたのでしょう??1279年、元のフビライ・ハンは、南宋を滅ぼし、ついに中国を統一。いよいよ日本攻撃に向けて全精力をつぎ込んでいきます。フビライ・ハンは、なぜそこまで日本進出にこだわったのでしょう?1281年6月、ついに元の大船団が九州に押し寄せます。鎌倉幕府軍は苦戦を強いられるものの、元はまたしても撤退。ながらく日本の勝利と伝えられてきた「元寇」、その時いったい何があったのでしょう?
<ラインナップ>
96代・後醍醐天皇が討幕を計画するも全て失敗に。一方で、楠木正成も挙兵する。
●1318年3月 第96代・後醍醐天皇が即位。【両統迭立】に不満を抱く
●1324年 後醍醐天皇は「正中の変」で討幕を計画。しかし失敗に終わる。
●1331年4月 後醍醐天皇
.. show full overview
<ラインナップ>
96代・後醍醐天皇が討幕を計画するも全て失敗に。一方で、楠木正成も挙兵する。
●1318年3月 第96代・後醍醐天皇が即位。【両統迭立】に不満を抱く
●1324年 後醍醐天皇は「正中の変」で討幕を計画。しかし失敗に終わる。
●1331年4月 後醍醐天皇 2度目の討幕計画「元弘の変」を打ち出すも重臣・吉田定房により計画が幕府に密告されてしまい、後醍醐天皇は笠置山に身を隠すことに。
●1331年9月 後醍醐天皇に呼応して、河内の豪族・楠木正成が挙兵。
●1332年 後醍醐天皇は幕府軍により捕らえられ、隠岐へと配流される
<内容>
1318年3月、討幕計画を企てることになる後醍醐天皇が即位。後醍醐天皇は、武家政権の鎌倉幕府に対し強い拒否感を抱いていました。何が、それほどまでに気に入らなかったのか?その人物像にも迫ります。そして、後醍醐天皇の討幕の挙兵に対抗し、幕府軍として足利尊氏が参戦。一方、後醍醐天皇の側には、楠木正成が参戦します。今回は、歴史に名を刻んだ2人の武将と後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕のいきさつを詳しく紐解いていきます。
<ラインナップ>
楠木正成が再び挙兵し反撃を開始する。その頃、後醍醐天皇が隠岐を脱出・挙兵しついに鎌倉幕府が約150年の歴史に幕を閉じる。
●1332年 楠木正成は合戦のため、四方を谷に囲まれた山城 「千早城」を建設。
さらには、幕府軍に明け渡していた赤坂城を奪還。和泉・河内を制圧。怒涛の反撃を開始。
●1333年 楠木正成らは、籠城戦「千早城の戦い」
.. show full overview
<ラインナップ>
楠木正成が再び挙兵し反撃を開始する。その頃、後醍醐天皇が隠岐を脱出・挙兵しついに鎌倉幕府が約150年の歴史に幕を閉じる。
●1332年 楠木正成は合戦のため、四方を谷に囲まれた山城 「千早城」を建設。
さらには、幕府軍に明け渡していた赤坂城を奪還。和泉・河内を制圧。怒涛の反撃を開始。
●1333年 楠木正成らは、籠城戦「千早城の戦い」 を起こすも、次第に幕府軍に押され始める。しかし、楠木軍は数か月にわたり必死の抵抗戦を続ける。
●隠岐に配流となってから1年。後醍醐天皇は、脱出をはかり挙兵。その1か月後、幕府の有力御家人・足利高氏が後醍醐天皇側へと寝返ることに。
●5月 鎌倉幕府の御家人・新田義貞も幕府を裏切ることに。そのわずか2週間後、鎌倉は攻め落とされ、ついに鎌倉幕府は滅亡する。
<内容>
一度は幕府軍に追い詰められ行方をくらませた楠木正成が反撃を始めます。幕府軍と3か月にわたる籠城戦を展開しますが、幕府軍を苦戦させた正成の強さの秘密とは?一方、後醍醐天皇は配流された隠岐から脱出して、討幕へ向けて再挙兵します。すると幕府の御家人だった足利高氏、新田義貞が幕府に反旗を翻しました。なぜ彼らは幕府を裏切ることになったのでしょうか?そして鎌倉幕府は滅亡、150年の歴史に幕を下ろします。
京に凱旋した後醍醐天皇は天皇中心の政治体制を築くも、足利尊氏が反旗を翻し、またしても戦乱の時代へ。
●1333年 6 月“島流し”から異例の復活を果たした後醍醐天皇は京に戻り、1334年 1
.. show full overview
京に凱旋した後醍醐天皇は天皇中心の政治体制を築くも、足利尊氏が反旗を翻し、またしても戦乱の時代へ。
●1333年 6 月“島流し”から異例の復活を果たした後醍醐天皇は京に戻り、1334年 1 月「建武の新政」を唱え、天皇中心の政治体制を確立。しかし、武士や公家からも多くの不満が起こり、2年で挫折する。
●1334年5月、護良親王による足利尊氏討伐計画が発覚。事前に阻止するも、黒幕は後醍醐天皇ではないかと尊氏は疑い、その後、足利尊氏と朝廷側との信頼関係は崩れていく。
●1335年8月、足利尊氏は自ら征夷大将軍を勝手に名乗り、後醍醐天皇に反旗を翻す。対立はどんどん激化していき、1336年1月、後醍醐天皇は、新田義貞や楠木正成、北畠顕家らで連合軍を編成し足利軍を攻撃。結果、足利尊氏は敗退し、九州へと逃げることになる。
<内容>
鎌倉幕府が滅亡し、隠岐に流されていた後醍醐天皇が京に戻る。後醍醐天皇は鎌倉幕府が擁立した光厳天皇を上皇にして、再び皇位につくと、討幕に活躍した足利高氏に「尊氏」の名を与える。後醍醐天皇は、それまでの武家政権を否定し、天皇がトップに立つ政治改革、建武の新政を断行。しかし、この新しい政治体制は、武士からも公家からも不満が噴出。建武の新政は失敗に終わる。その後、醍醐天皇は、良好だった足利尊氏との関係が次第に悪化。そんな中、鎌倉で反乱が起こり、足利尊氏は後醍醐天皇に無断で鎌倉に出陣。乱を鎮めると、そのまま鎌倉に落ち着き、征夷大将軍を自称。実質的に武家政権を復活させる。後醍醐天皇は足利尊氏のライバル、新田義貞に足利尊氏討伐の命令を出す。楠木正成も参戦し。ついに後醍醐天皇、新田義貞、楠木正成と足利尊氏との戦いが始まる。
<ラインアップ>
足利尊氏が反撃へ。室町幕府の誕生と 南北朝の時代へ
●1336 年2月、足利尊氏が光厳上皇から「新田義貞討伐の院宣」を手に入れ九州で反撃を開始。
●1336
.. show full overview
<ラインアップ>
足利尊氏が反撃へ。室町幕府の誕生と 南北朝の時代へ
●1336 年2月、足利尊氏が光厳上皇から「新田義貞討伐の院宣」を手に入れ九州で反撃を開始。
●1336 年5月「湊川の戦い」が起こる。足利尊氏は50万と言う圧倒的な兵力で後醍醐天皇側の軍隊に勝利し再度入京を果たす。この時、楠木正成は自害。一方、劣勢となった後醍醐天皇は三種の神器をともない比叡山に逃走。すると尊氏は光明天皇を擁立するが、10月になって後醍醐天皇は尊氏の和議に応じることになる。
●1336年11月、足利尊氏が建武式目を発布し、京都に室町幕府を開く。
●1336年12月、後醍醐天皇がまたも京都を脱出し、自分が正式な天皇であると主張。以降、天皇が二人存在する南北朝の時代へ突入する。
<内容>
今回は、室町幕府の誕生と、南朝・北朝の二つの朝廷が並び立つ南北朝の時代の始まりを詳しく見ていく。1335年、足利尊氏は後醍醐天皇に反旗を翻し京に攻め込むも、楠木正成や新田義貞に撃退され九州へと逃げることになった。朝敵となった尊氏だが、光厳上皇より新田義貞討伐の院宣を手にいれ挽回を始める。九州で後醍醐天皇方を破ると、体制を立て直し再び京を目指す。兵庫の湊川で楠木正成と新田義貞を破り京に入った尊氏は、光厳上皇の弟を光明天皇として擁立。そして室町幕府を開く。一方の後醍醐天皇は、吉野に逃げ新たに朝廷を開く。南朝と北朝、二つの朝廷にそれぞれ天皇が並び立つ事態へと発展。どちらの朝廷を支持するか、武士や公家も二つに別れて争い、日本全体が混迷の時代へ突入する。
<ラインアップ>
仲の良かった足利尊氏と弟・直義が対立。高師直や南朝も巻きこみ、大きな戦へと発展。
●1339年8月、南朝の後醍醐天皇が崩御、北朝側でも喪に服した。
●1349年8月、尊氏の弟・直義と高師直による内部抗争が勃発。尊氏は、直義を幕府統括から解任させ、一旦この抗争は収束。しかし、直義はこれを不服として京を脱出する。
●1351年2月、不満を募らせた直
.. show full overview
<ラインアップ>
仲の良かった足利尊氏と弟・直義が対立。高師直や南朝も巻きこみ、大きな戦へと発展。
●1339年8月、南朝の後醍醐天皇が崩御、北朝側でも喪に服した。
●1349年8月、尊氏の弟・直義と高師直による内部抗争が勃発。尊氏は、直義を幕府統括から解任させ、一旦この抗争は収束。しかし、直義はこれを不服として京を脱出する。
●1351年2月、不満を募らせた直義は「尊氏・師直」との直接対決「打出浜の戦い」を始める。この戦いで尊氏・師直軍は惨敗。尊氏は和議を受け入れ帰京、高師直は護送中に直義派から襲撃にあい無残な最期をとげる。
●1351年11月、互いに互いを警戒しあっていた尊氏と直義は、ついに天下分け目の兄弟決戦へと乗り出していく。伊豆と駿河の間で激しい戦いが行われるが、最終的には尊氏軍が勝利。直義は降伏して鎌倉に幽閉されるが、翌年の2月、謎の死をとげる。
<内容>
今回は、北朝を擁立する室町幕府の内部で起こった分裂騒動「観応の擾乱」をお伝えします。尊氏の弟・直義と、尊氏の執事であった高師直が対立。これがやがて、室町幕府分裂のきっかけとなるのですが、その原因とは何だったのでしょうか?そんな中、幕府の実質的統括者でもあった足利直義が南朝側に寝返ります。これにより、仲が良かったはずの兄・尊氏と弟・直義は決裂。兄弟対決へと展開していきます。果たして、2人の戦いの行方は?今回は、仁義なき兄弟喧嘩「観応の擾乱」の真相に迫ります。
<ラインアップ>
混迷を極める南北朝の争い。そんな中、足利義満が次第に力をつけて行く。
● 1352年閏2月、足利尊氏の留守中に南朝の軍勢が京に侵攻し、南朝は16年ぶりに京を奪還。しかし翌月、足利義詮が反撃し、北朝が京を再奪還する。
● 1358年4月30日
.. show full overview
<ラインアップ>
混迷を極める南北朝の争い。そんな中、足利義満が次第に力をつけて行く。
● 1352年閏2月、足利尊氏の留守中に南朝の軍勢が京に侵攻し、南朝は16年ぶりに京を奪還。しかし翌月、足利義詮が反撃し、北朝が京を再奪還する。
● 1358年4月30日 足利尊氏が54歳で死去。
その後、1358年12月に、足利義詮が2代将軍に就任。しかし、わずか9年で急逝し、1368年12月、足利義満が11歳にして3代目・征夷大将軍に就任する。
●1368年 、中国では明が建国。 元を北方へ追いやる。同じ頃、明の使者が日本にやって来て、南朝の懐良親王と接触。南朝は明と朝貢関係を結び北朝に対抗する。
●1378年3月、足利義満が「花の御所」を完成させる。正門が室町通りに面したことから室町御所とも呼ばれ、これが「室町幕府」の名前の由来となった。
<ラインナップ>
足利義満がついに南北朝の合一を成し遂げる。
●1378年 三代将軍・足利義満は21歳と言う若さで右近衛大将に昇進。摂関家と並ぶ。
●1381年 義満は将軍として初めて「花の御所」に天皇を招く。
●1382年、25歳で左大臣に就任した義満は、次第に天皇家への圧力を強めていき、後円融上皇を失脚へと追い込む。この頃南朝では、強硬派と言われた長慶天皇が
.. show full overview
<ラインナップ>
足利義満がついに南北朝の合一を成し遂げる。
●1378年 三代将軍・足利義満は21歳と言う若さで右近衛大将に昇進。摂関家と並ぶ。
●1381年 義満は将軍として初めて「花の御所」に天皇を招く。
●1382年、25歳で左大臣に就任した義満は、次第に天皇家への圧力を強めていき、後円融上皇を失脚へと追い込む。この頃南朝では、強硬派と言われた長慶天皇が譲位し、次の天皇が即位したため、義満にとってはやりやすい環境が整いつつあった。
●1390年 足利義満と土地の支配を強める守護大名との間で対立が激化。しかし義満は一つ一つその勢いを削いでいき、自分の支配を揺るぎないものにしていく。
●1392年 室町幕府の力は強大なものとなり、南朝を担ぐ勢力も消えていった。足利義満は武家・公家の権威を確立し、ついに57年ぶりに南北朝合一を果たす。
【内容】
今回は、足利義満が朝廷の中でも地位を登りつめていき、ついには、南北朝合一を成し遂げるまでを見ていきます。足利義満は1378年に右近衛大将(うこのえたいしょう)に就任。その後、わずか4年で、内大臣・左大臣と異例のスピード出世を成し遂げますが、義満は一体、何をしようと考えたのでしょうか?さらに!義満は1390年以降、土岐(とき)氏や山名氏など有力な地方の守護大名を次々と討伐していきます。これにはどんな狙いがあったのでしょうか?1392年、義満の力によってついに南北朝が合一します。長い間、南朝が持ち続けていた「三種の神器」が北朝へと渡されます。この時、義満と北朝・南朝の、それぞれの思惑はどうだったのでしょうか?
<ラインナップ>
足利義満は明との勘合貿易を押し進め、室町幕府は全盛期を迎える。
●1394 年 足利義満は将軍職を息子・義持(9)に譲り、義満は、公家の最高官職である太政大臣に就任。しかし半年で出家することに。
●1397 年 現在の金閣寺を含む「北山第」の造営を始める。出家した後も、御所にあった政治機能を北山第に移し、政治の実権を握り続けた。
●1399年
.. show full overview
<ラインナップ>
足利義満は明との勘合貿易を押し進め、室町幕府は全盛期を迎える。
●1394 年 足利義満は将軍職を息子・義持(9)に譲り、義満は、公家の最高官職である太政大臣に就任。しかし半年で出家することに。
●1397 年 現在の金閣寺を含む「北山第」の造営を始める。出家した後も、御所にあった政治機能を北山第に移し、政治の実権を握り続けた。
●1399年 最大の守護大名・大内義弘を討伐...応永の乱
●1401年 中国「明」に使者を派遣し、義満が「日本国王」として明と朝貢関係を築く。
●1404年 「勘合貿易」(日明貿易)が始まる。
●1408年 足利義満、51歳で急死。
<内容>
今回は室町幕府3代将軍・足利義満が、「日本国王」を名乗り中国・明との貿易に乗り出していく動きを見ていく。義満は政治の中心だった「花の御所」とは別に「北山第」と呼ばれる自らの住まいを造営する。そこに建てられた金箔で飾られた舎利殿が「金閣」だ。義満はなぜ、この地に金閣を造ったのだろうか。さらに義満は明と朝貢関係を結び、明から「日本国王」の称号を送られる。なぜ、そこまでして明との外交関係を望んだのだろうか。明との交易によって様々な高価な品や中国の文化が日本に流入すると、金閣を中心に「北山文化」が花開く。武家・公家、それぞれを掌握した義満が次に望んだこととは…。
<ラインナップ>
くじ引きで決まった6代将軍・足利義教、その恐怖政治が始まっていく。
●1408年 カリスマだった義満が急死。4代将軍・足利義持は義満の路線を継承せず、次々と否定していく。
●1416年 「上杉禅秀の乱」勃発。前関東管領の上杉禅秀が鎌倉公方の足利持氏邸を急襲。しかし、幕府は持氏を救援するため討伐軍を派遣し禅秀軍はあえなく敗退する。
●1419年
.. show full overview
<ラインナップ>
くじ引きで決まった6代将軍・足利義教、その恐怖政治が始まっていく。
●1408年 カリスマだった義満が急死。4代将軍・足利義持は義満の路線を継承せず、次々と否定していく。
●1416年 「上杉禅秀の乱」勃発。前関東管領の上杉禅秀が鎌倉公方の足利持氏邸を急襲。しかし、幕府は持氏を救援するため討伐軍を派遣し禅秀軍はあえなく敗退する。
●1419年 倭寇の襲撃に悩まされた朝鮮王朝が報復として対馬を襲来! 「応永の外寇」
●4代将軍・足利義持が息子・義量に将軍職を譲り出家。しかし1452年、息子・義量は19歳の若さで急死する。そしてその後、義持本人も病に倒れることに。
●義持には実子がなかったため、後継将軍は深刻な政治問題へと発展。醍醐寺の僧・満済が、くじ引きで将軍を選ぶことを提案し、義持は了承する。
●1428年1月 義持が遂に亡くなり、くじ引きで将軍が決められることに。将軍となったのは足利義教。その後、義教は将軍の権力を回復させるため「恐怖政治」を行っていく。
<内容>4代将軍・足利義持は、父・義満が敷いた政治路線をなぜか次々と否定、独自の政策を進めていきます。果たして、義持の意図とは?1428年、6代将軍に足利義教が就任。実は、この義教、“くじ引き”で選ばれた将軍でした。一体なぜ、最高権力者を選ぶのに“くじ引き”という、奇妙な方法がとられたのか?今回は、混乱する足利将軍家の内幕に迫ります。
<ラインナップ>
南朝の復活を望む勢力が三種の神器を強奪。強引な権力争いが繰り広げられる。
●1441年6月 恐怖政治を行っていた6代将軍・義教が暗殺される。「嘉吉(かきつ)の変」首謀者は有力な大名だった赤松満祐。
●1442年12月 足利将軍家の権威が揺らぐ中、後継には義教の息子・義勝が就任。しかし8か月後に病死。翌年の1443年8月、義勝の弟・義政が8代将軍の
.. show full overview
<ラインナップ>
南朝の復活を望む勢力が三種の神器を強奪。強引な権力争いが繰り広げられる。
●1441年6月 恐怖政治を行っていた6代将軍・義教が暗殺される。「嘉吉(かきつ)の変」首謀者は有力な大名だった赤松満祐。
●1442年12月 足利将軍家の権威が揺らぐ中、後継には義教の息子・義勝が就任。しかし8か月後に病死。翌年の1443年8月、義勝の弟・義政が8代将軍の「候補」となり、ここから6年間、将軍不在の時代となる。
●1443年 源尊秀などの南朝の復活を望む勢力によって、三種の神器が強奪される。鏡は無事だったが、剣と勾玉が強奪される。「禁闕の変」
●1454年12月 この頃、約30年に渡る関東での戦争「享徳の乱」が始まる。
●1457年 神器奪還作戦「長禄の変」により1458年、三種の神器が14年ぶりに京に戻る。
<内容>
恐怖政治を進める6代将軍・義教は有力大名に暗殺されてしまいます。有力大名が暗殺の暴挙に出た理由とは?朝廷では三種の神器強奪事件が勃発。神器を奪った者たちには、一体どんな狙いがあったのでしょうか?関東では30年にわたる戦乱が始まります。今回は、戦国時代の先駆けとも言える乱世の前哨戦を紐解きます。
<ラインナップ>
戦国時代のきっかけとも言われる「応仁の乱」が始まる。これまでは「将軍家の後継者争い」が原因と言われてきた「応仁の乱」だったが、実は様々な要因が複雑に絡み合い起こっていた。その真相に迫る。
●1445年 8 代将軍義政は日野富子を正室に迎えるも、なかなか継子に恵まれなかった
●1460年 三管領のひとつ
.. show full overview
<ラインナップ>
戦国時代のきっかけとも言われる「応仁の乱」が始まる。これまでは「将軍家の後継者争い」が原因と言われてきた「応仁の乱」だったが、実は様々な要因が複雑に絡み合い起こっていた。その真相に迫る。
●1445年 8 代将軍義政は日野富子を正室に迎えるも、なかなか継子に恵まれなかった
●1460年 三管領のひとつ 畠山家の家督争い激化。同じころ、斯波家でも家督争いが生じていた。この影響により細川の影響力が強まることに。
●1464年 義政は、僧侶となっていた弟・義視を還俗させ、後継者にする。しかしその後すぐに、富子が長男・義尚を出産。
●1466年 文正の政変が起こる。
側近・伊庭貞親が「義視が謀反を企んでいるので、殺害すべき」と義政に進言。しかし、これは「嘘」であることが、やがて発覚する。貞親は京から近江に退くことになり、幕府には、細川と山名の 2 大勢力が残った。
●1467年1月、畠山家の家督争いが激しくなる。畠山義就が畠山政長がいる上御霊社を襲撃。これが引き金となり、いよいよ応仁の乱が始まる。
●1467 年5月 細川方が山名方へ攻め込む「上京の戦い」が始まり、両者は全面戦争へ突入。
●幕府を味方につけた東軍(細川方)は、兵力で大きく西軍(山名方)に勝っていたが、西軍は徹底抗戦に出たため勝負は膠着状態に。
<内容>
1467年から11年にわたって続いた応仁の乱。京を中心に西日本各地で160以上もの戦いが繰り広げられ、室町幕府の衰退を招き、戦国時代への入り口となったこの戦乱は、日本の転換点になったとされている。かつては、8代将軍足利義政の正室・日野富子が、長男を次期将軍にするために反対派と対立したことが、応仁の乱の原因とされてきた。しかし、最近では、応仁の乱に日野富子はほとんど関係していないことがわかってきた。応仁の乱は有力守護の家督争い、将軍の後継問題、幕府内の勢力争いの3つの要因が絡み合って、京の勢力を二分する戦乱に発展したと考えられている。そして、これらの問題に介入し、さらに複雑に拡大していったのが、足利義政だった。今回は、応仁の乱がいかにして始まったのか、そして足利義政はどのように動いたのかを中心にひも解いていく。
<ラインナップ>
約11年続いた「応仁の乱」は勝者もなく終戦を迎える。果たして、応仁の乱がもたらしたものとは・・・
●1467年8月 3 万の軍勢をひきつれた大内政弘が西軍に合流。これを見た東軍の総大将・足利義視は逃亡。すると、西軍が勢いを増していく。
●1467年10月 勢いに乗った西軍は2万の軍勢で相国寺にいた東軍に猛攻をしかけ、応仁の乱最大の戦闘が勃発する。「相国寺の戦い」
●1468年11月、ここで、逃亡していた足利義視が、西軍に寝返る。
●1471年5月、すると今度は、西軍の大将・朝倉孝景が東軍に寝返る。
●1472年、西軍・山名宗全が 東軍・細川勝元に和睦を持ち掛けるも暗礁へ…。
●1473年、西軍・山名宗全が 東軍・細川勝元が相次いで死去。
●1476年9月、足利義政と西軍・大内政広との間で終戦交渉が始まり、1467年11月、大内氏の所領を保証される形で、大内政広は東軍に降伏。応仁の乱は一応の終結を迎える。
<内容>
今回は、応仁の乱!後編。日本史上最大級の内乱、約11年間に及んだ戦の経緯を中心に紹介する。有力守護大名の家督争い、8代将軍足利義政の後継者問題、山名宗全と細川勝元の幕府内での主導権争いが複雑に絡み合い、京の勢力を二分、西と東に分かれ始まった応仁の乱。開戦当初は、幕府を味方につけたうえ、兵力も上回った東軍が優勢だったが、そこに中国九州地方の有力守護大名、大内政弘が3万の兵を引き連れ西軍に加勢、戦局が一気に変わる。勢いに乗る西軍は内裏を占拠したうえ、さらに2万の兵で東軍最大の陣地だった相国寺に襲いかかる。しかし、決着はつかず、その後の10年以上戦いは続くことに。なぜ戦は長引いたのか、また10年以上続いた戦がどのように終わったのか、さらに応仁の乱が日本に与えた多大な影響など…応仁の乱、その全貌に迫る。
<ラインナップ>
応仁の乱以降、将軍や守護大名の権力が弱まったことで、「一揆」が各地で起こる。民衆にも下剋上の機運が高まっていく。
●応仁の乱の最中、当時まだ9歳の足利義尚が9代将軍に就き、日野富子がその後見人として実質的な幕府の権力者に。
●日野富子は、関所を作って通行税を徴収したり、コメの投機的な売買を行うなどして蓄財に励んだため「悪女説」が浮上。しかし近年で
.. show full overview
<ラインナップ>
応仁の乱以降、将軍や守護大名の権力が弱まったことで、「一揆」が各地で起こる。民衆にも下剋上の機運が高まっていく。
●応仁の乱の最中、当時まだ9歳の足利義尚が9代将軍に就き、日野富子がその後見人として実質的な幕府の権力者に。
●日野富子は、関所を作って通行税を徴収したり、コメの投機的な売買を行うなどして蓄財に励んだため「悪女説」が浮上。しかし近年では見直す見方も。
●1482年 8代将軍・足利義政が「東山山荘」(銀閣を含む)の造営を開始。
●1485年 「山城の国一揆」が起こり、1488年 には一向宗徒による「加賀の一向一揆」が起こる。
●1489年 9代将軍・足利義尚が死去すると、後を追うように父・義政も死去。
<内容>
1480年、日野富子に怒った民衆が一揆を起こします。一体、民衆はどのような理由で立ち上がったのか?一方、夫の足利義政は、銀閣を含む東山山荘の造営を開始。ここから、わび・さびを基調とした「東山文化」が花開していくわけですが、この「東山文化」とは、一体、どのような文化だったのか?今回は、なおも混乱する日本国内の情勢から、当時栄えていた文化に至るまで、じっくりと紐解いていきます。
<ラインナップ>
義稙が10代将軍に就任。しかし、日野富子を管領・細川政元によるクーデターが起こり、義稙は追放されることに。
●1490年 足利義稙が10代将軍に就任。しかし翌年には義政の弟・義視が死去したことで後ろ盾を失う。
●1493年 大名・細川政元が10代将軍・義稙の追放を企てる。クーデター「明応の政変」が起こり、細川政元は清晃を還俗させて、11代将軍候補
.. show full overview
<ラインナップ>
義稙が10代将軍に就任。しかし、日野富子を管領・細川政元によるクーデターが起こり、義稙は追放されることに。
●1490年 足利義稙が10代将軍に就任。しかし翌年には義政の弟・義視が死去したことで後ろ盾を失う。
●1493年 大名・細川政元が10代将軍・義稙の追放を企てる。クーデター「明応の政変」が起こり、細川政元は清晃を還俗させて、11代将軍候補として擁立。
●一連の出来事を背景にして、足利将軍家の権威は失墜していく。京では細川氏が政治の実権を握ることに。逆に、地方にいた守護大名達は、自分たちの領地支配に集中し力をつけていく。こうして戦国時代の下地が出来上がっていく。
●1494年 還俗した清晃は、足利義澄として11代将軍に就任。
●1496年 日野富子死去。
<内容>
10代将軍に就任した足利義稙の政治は父親に支えられていましたがその父親が亡くなると後ろ盾を失った10代将軍・足利義稙は、ある行動に出ます。どんな行動をとったのでしょうか?そして、幕府のNo.2だった細川政元は10代将軍・義稙を追放するためクーデターを起こします。一体なぜ?一方、関東は戦乱が続いており、その中で伊勢宗瑞(北条早雲)が台頭します。近年の研究で明らかになってきた伊勢宗瑞の人物像とは?今回は、まさに戦国時代目前の日本の動きを紐解きます。
<ラインナップ>
1493年~1495年 伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆国に続き相模国・小田原城を攻略。
1497年 安芸国で毛利元就が誕生。
1500年 103代・後土御門天皇が崩御。104代後柏原天皇が皇位継承。
.. show full overview
<ラインナップ>
1493年~1495年 伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆国に続き相模国・小田原城を攻略。
1497年 安芸国で毛利元就が誕生。
1500年 103代・後土御門天皇が崩御。104代後柏原天皇が皇位継承。
しかし、葬儀や即位の儀式は行われなかった。
1508年 10代将軍足利義稙が将軍職復権。11代将軍足利義澄は京から逃亡。
1516年 伊勢宗瑞(北条早雲)は相模国を攻め、三浦氏は逃亡する。
<内容>
今回は戦国大名が実力で支配地域を広げていく「下剋上の時代」に突入していきます。伊豆国に現れた北条早雲が相模国・小田原城を攻め、その後、相模国守護を滅ぼし相模国も支配下にする。北条早雲とは、これまでは、伊勢の素浪人が下剋上によって伊豆・相模を攻略した、とされてきたが、最近は、素浪人ではなく室町幕府に仕えた人物、さらに本人は「北条早雲」と名乗ったこともないという。どういうことなのか、詳しく見ていく。中国地方では毛利元就が誕生。いよいよ戦国時代の群雄割拠の時代へ突入する。応仁の乱後の朝廷は日々の食事にも困るほどの財政難だったが、その窮状を見かね、助けた人物がいた。
<ラインナップ>
1521年3月 10代将軍・足利義稙が四国に追放される
1521年11月 甲斐で武田信玄が誕生する
1522年 陸奥で伊達稙宗(正宗の曽祖父)が守護になる
1523年4月 細川家を大内家が明の寧波で戦う(寧波の乱)
1523年 安芸で毛利元就が毛利家の家督を継ぐ
1526年 駿河の今川氏親が分国法「今川仮名目録」を制定する。
.. show full overview
<ラインナップ>
1521年3月 10代将軍・足利義稙が四国に追放される
1521年11月 甲斐で武田信玄が誕生する
1522年 陸奥で伊達稙宗(正宗の曽祖父)が守護になる
1523年4月 細川家を大内家が明の寧波で戦う(寧波の乱)
1523年 安芸で毛利元就が毛利家の家督を継ぐ
1526年 駿河の今川氏親が分国法「今川仮名目録」を制定する。
<内容>
今回は、いよいよ群雄割拠の時代に突入。北は東北から南は中国地方まで名だたる、戦国武将たちが歴史の表舞台に登場します。1521年、甲斐の国、現在の山梨県で武田信玄が誕生します。戦国最強武将の1人と言われる信玄は、どんな環境で育ったのでしょうか?1523年、安芸(あき)の国、現在の広島県では、弱小領主の1つに過ぎなかった毛利家の家督を、27歳の元就が継ぎます。のちに、中国地方全体を治める戦国大名となる元就はこのとき、何を思っていたのでしょうか?その他、駿河の今川家や東北の伊達家の様子など、本格的な戦国時代に突入していく直前の1519年からの7年間を中心に詳しく見ていきます。
<ラインナップ>
1572年2月 12代将軍・足利義春が都落ちし近江へ
1530年1月 越後国で長尾景虎(後の上杉謙信)が誕生する
1534年5月 尾張国で織田信長が誕生する
1536年5月 今川義元が18歳で家督争いに勝利。
1536年7月 法華宗VS延暦寺による争い「天分法華の乱」が勃発
1537年2月 尾張国で豊臣秀吉が誕生する
1541年 武田信
.. show full overview
<ラインナップ>
1572年2月 12代将軍・足利義春が都落ちし近江へ
1530年1月 越後国で長尾景虎(後の上杉謙信)が誕生する
1534年5月 尾張国で織田信長が誕生する
1536年5月 今川義元が18歳で家督争いに勝利。
1536年7月 法華宗VS延暦寺による争い「天分法華の乱」が勃発
1537年2月 尾張国で豊臣秀吉が誕生する
1541年 武田信玄が21歳で父・信人らを追放し家督を奪う
1542年 斎藤道山が美濃国で戦国大名に
1542年12月 三河国で徳川家康が誕生する
<内容>
今回は、続々と登場する戦国大名たちの実像に迫ります。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らが相次いで誕生。のちに天下人となる3人は、一体、どのような生い立ちだったのでしょうか?さらに、武田信玄が、父親の信虎を追放し家督を相続します。一体、なぜ信玄は、父親を追放したのでしょうか?そして、美濃国では、斎藤道三が油売りから戦国大名へ一代でのし上がります。しかし、実は今、この定説が覆されつつあります。果たして、その真相とは!?
<ラインナップ>
1543年 ポルトガル人により種子島に鉄砲が伝来
1545年 種子島で鉄砲の国産化に成功
1546年 北条氏 対 関東旧勢力「河越城の戦い」
1548年 長尾景虎(上杉謙信/19)が家督を継ぐ
織田信長(16)が斎藤道三の娘・濃姫(15)と結婚
1549年 鉄砲が実戦で初めて使われる「黒川崎の戦い」
<内容>
今回は、戦国時代の日本に大きな影響を与えた鉄砲について紐解きます。ポルトガル人によってもたらされた鉄砲ですが、伝来には倭寇が関係していたと言われています。その真相とは?また近年では日本に伝来した鉄砲はポルトガル製ではなかった可能性があるとも言われています。どこで作られたものだったのでしょうか?そして、鉄砲は日本の戦を大きく変えました。どのような影響があったのでしょうか?
<ラインナップ>
1547年 松平竹千代(徳川家康)が三河で織田氏の人質になる。
1549年 竹千代、今度は今川氏の人質となる。
この年フランシスコ・ザビエル来日。キリスト教を伝える。
京では、13代将軍足利義輝が京から追放。三好長慶が政権を握る。
1551年 周防では、8月大内義隆が倒され大内氏滅亡。
長尾景虎(上杉謙信)が越後を統
.. show full overview
<ラインナップ>
1547年 松平竹千代(徳川家康)が三河で織田氏の人質になる。
1549年 竹千代、今度は今川氏の人質となる。
この年フランシスコ・ザビエル来日。キリスト教を伝える。
京では、13代将軍足利義輝が京から追放。三好長慶が政権を握る。
1551年 周防では、8月大内義隆が倒され大内氏滅亡。
長尾景虎(上杉謙信)が越後を統一。戦闘態勢を整えて政景に圧力をかける。
<内容>
1547年。松平竹千代、のちの徳川家康は、6歳で織田氏の人質となり、2年後には今川氏の人質となって、幼少から青年期を過ごす。実はこの人質時代が、家康を優秀な戦国武将にしたといわれている。果たしてどのような生活をしていたのか。九州には、鉄砲に続いて、キリスト教がポルトガルから伝えられる。宣教師ザビエルはなぜはるばる日本にやって来たのか。各地で布教活動を行ったザビエルがみた日本と日本人とは。ザビエルが訪れた京ではクーデターが起こり、13代将軍足利義輝に代わって三好長慶という武将が政権を掌握。最近では、この三好長慶こそが、織田信長に先立つ最初の「天下人」とされている。その理由とは。そして越後では、長尾景虎、のちの上杉謙信が内乱を抑え、統一を果たす。そのころ、隣国の信濃に武田晴信、のちの信玄が攻め込んできていた。
<ラインナップ>
1552年3月 父・織田信秀(42歳)が病死。織田信長(19)が家督をつぐ
1552年12月日本初の“クリスマス”が山口で行われる
1553年4月織田信長(20)と斎藤道三(60)が初対面
この頃甲斐国の武田晴信(信玄・33歳)が信濃国を手中にする
1553年9月武田晴信(信玄)と長尾景虎(上杉謙信)が対決。
越後国と信濃国の国境近く~川中島の戦いが始まる~
1554年武田晴信(信玄)・北条氏康・今川義元が同盟を結ぶ~甲相駿三国同盟~
<内容>
今回は、1552年から1554年の2年間。織田信長の躍進と、後の武田信玄と上杉謙信の対決、川中島の戦いの緒戦を紹介する。19歳で家督を継いだ尾張国の織田信長。この頃、奇抜な衣装で奇行を繰り返したことから「おおうつけもの」と呼ばれた信長だったが、一方で兵法を学び、鉄砲や弓の稽古に励むなど全く違う側面があった。そんな信長が、妻・濃姫の父であり美濃国を治める斎藤道三と初めて会う。この会合が信長に大きな影響を与えることになるのだが、その影響とは。そして、甲斐国の武田晴信、後の信玄と、越後国の長尾景虎が、川中島で激突する。以降12年間にわたり戦うことになる二人だが、そもそもなぜ二人は対決することになったのか、その経緯を詳しく紹介。また、ライバルと言われる武田晴信と長尾景虎の軍勢を比較。二人の戦い方の違いを紹介する。
<ラインナップ>
1555年4月 織田信長が“下剋上”尾張 (愛知県西部)の守護代・織田信友を廃す
1555年10月 毛利元就 vs 大内氏「厳島の戦い」
1556年4月 斎藤道三が敗死、信長は後ろ盾を無くすことに
<内容>
1555年4月、織田信長が、自分の主君である織田信友を倒し“下剋上”を果たす。一体、信長は、どのような方法で主君・信友を倒した?1555年10月、安芸国の厳島で、毛利元就と陶晴賢による「厳島の戦い」が勃発。小さな島、厳島を舞台にしたこの合戦、果たして、どのような戦いになったのか?今回は、織田信長の“下剋上”と西国での大きな戦いに迫る!
<ラインナップ>
1556年8月 織田信長と弟・信勝が対立「稲生の戦い」
1557年10月 105代・後奈良天皇の崩御で106代・正親町天皇が即位
1557年 松平元信(徳川家康)が築山殿と結婚
1558年12月 13代将軍・足利義輝が5年ぶりに京に帰還
1559年前半 織田信長が尾張をほぼ統一
1559年2月
.. show full overview
<ラインナップ>
1556年8月 織田信長と弟・信勝が対立「稲生の戦い」
1557年10月 105代・後奈良天皇の崩御で106代・正親町天皇が即位
1557年 松平元信(徳川家康)が築山殿と結婚
1558年12月 13代将軍・足利義輝が5年ぶりに京に帰還
1559年前半 織田信長が尾張をほぼ統一
1559年2月 織田信長が上洛13代将軍・義輝に謁見
<内容>
織田信長は1556年に弟の信勝と、1559年には尾張の半分を支配していた岩倉織田氏と戦います。どのような戦いだったのでしょうか?
一方、近江に逃亡していた13代将軍・足利義輝が京に帰還。幕府の権威回復のために行った事とは?そして信長は上洛して、13代軍・義輝に謁見します。信長の狙いは?今回は、信長が天下統一に向けて尾張を統一していく過程を紐解きます。
〈ラインナップ〉
1559 年6月 大友宗麟が豊前・筑前の守護に任命⇒九州最大の勢力に
1559 年6月 織田信長の家臣・前田利家が信長の側近を斬殺
1560 年5月 今川義元 vs 織田信長 「桶狭間の戦い」
・10日 松平元康(家康)が義元軍・先発隊として駿府を出発
.. show full overview
〈ラインナップ〉
1559 年6月 大友宗麟が豊前・筑前の守護に任命⇒九州最大の勢力に
1559 年6月 織田信長の家臣・前田利家が信長の側近を斬殺
1560 年5月 今川義元 vs 織田信長 「桶狭間の戦い」
・10日 松平元康(家康)が義元軍・先発隊として駿府を出発
・18日 義元軍・本隊が尾張国に侵攻
・19日 信長軍と義元軍が激突⇒信長が勝利、義元は戦死
※松平元康(家康)は19歳で今川家から「独立」へ…
〈内容〉
今回は織田信長の名を世に知らしめた≪桶狭間の戦い≫
今川義元が公称4万もの大軍を尾張国に向け出陣!先発隊の大役は徳川家康。対する織田信長は2500ほどの軍勢と言われている。圧倒的な戦力差にも関わらず信長軍は義元軍に勝利、義元を討ち取ったことで天下統一へ大きく前進した。
なぜ信長は勝つことができたのか?
“奇襲”による勝利だと言われてきたが、最近は“信長は奇襲攻撃をしたわけではない”と考えられている。ではその戦い方とは?そして今川義元の下で、家康はどんな戦いをしていたのか?
信長の“戦国大名としてのデビュー戦”を紐解く。
<ラインナップ>
1560年 13代将軍・足利義輝が京都でキリスト教の布教を認める
1561年3月 長尾景虎(上杉謙信)が北条氏康を攻め、小田原城を包囲
1561年8月 木下藤吉郎(豊臣秀吉)が結婚
1561年8~9月 「第4次川中島の戦い」
1562年
.. show full overview
<ラインナップ>
1560年 13代将軍・足利義輝が京都でキリスト教の布教を認める
1561年3月 長尾景虎(上杉謙信)が北条氏康を攻め、小田原城を包囲
1561年8月 木下藤吉郎(豊臣秀吉)が結婚
1561年8~9月 「第4次川中島の戦い」
1562年 織田信長と松平元康(徳川家康 )が清洲同盟を結ぶ
<内容>
宿命のライバル、上杉謙信と武田信玄が5回も争った「川中島の戦い」
今回は激戦となった「第4次川中島の戦い」を中心に、1560年からの4年間を紐解く。
戦いの火蓋を切った武田軍による「キツツキ戦法」とは?
戦国合戦の名シーンとして語り継がれる、謙信と信玄の一騎打ちの真相に迫る!
〈ラインナップ〉
1564年3月 松平(徳川)家康が三河一向一揆と和睦
1565年5月19日 三好三人衆らが13代将軍・足利義輝を殺害
1566年9月24日 木下藤吉郎(豊臣秀吉 / 30)が墨俣城を一夜で築城
1566年11月21日 毛利元就が尼子氏を倒し中国地方の覇者に
1566年12月29日
.. show full overview
〈ラインナップ〉
1564年3月 松平(徳川)家康が三河一向一揆と和睦
1565年5月19日 三好三人衆らが13代将軍・足利義輝を殺害
1566年9月24日 木下藤吉郎(豊臣秀吉 / 30)が墨俣城を一夜で築城
1566年11月21日 毛利元就が尼子氏を倒し中国地方の覇者に
1566年12月29日 「松平」から改姓…「徳川家康」誕生!
1567年8月15日 織田信長が美濃 ( 岐阜・錦南部 )を制圧
1567年10月10日 松平久秀が“東大寺を焼き討ち”?
〈あらすじ〉
1563年、家康の地元・三河で一向一揆が勃発。家康は何とか和睦へと持ち込むが、その一連のいきさつとは?
一揆を鎮めた家康は「松平」から「徳川」へと改姓。なぜ家康はこの時に名前を変えたのか?また「徳川」という姓はどこから来たのか?
一方、織田信長は美濃国を制圧。勢力拡大を進めていた信長の動きに迫る!
〈ラインナップ〉
1568年 足利義栄、14代将軍に就任
1568年 織田信長が足利義昭を奉じて上洛
1568年 足利義昭、15代将軍に就任
1569年 信長が宣教師ルイス・フロストと面会
1569年 徳川家康が三河・遠江の2国を支配
1569年
.. show full overview
〈ラインナップ〉
1568年 足利義栄、14代将軍に就任
1568年 織田信長が足利義昭を奉じて上洛
1568年 足利義昭、15代将軍に就任
1569年 信長が宣教師ルイス・フロストと面会
1569年 徳川家康が三河・遠江の2国を支配
1569年 信長が伊勢を領国にする
〈内容〉
織田信長が天下統一に向けた動きをついに本格化!次期将軍を狙う足利義昭と協力し、上洛。信長と義昭はどのように上洛を成功させたのか?
上洛した信長は京でルイス・フロイスと出会う。フロイスが残した詳細な記録…フロイスが見た信長とは?
三河の徳川家康は武田信玄と手を組み、今川氏の領地である駿河と遠江に攻め込み、遠江を獲得。どのような侵攻作戦が行われたか?
<ラインナップ>1570年
1月 信長、殿中御掟に5か条追加
2月 布部山の戦い
4月 金ヶ崎の戦い
6月 姉川の戦い
8月 今山の戦い
9月 石山合戦はじまる
<内容>
1570年1月、織田信長は15代将軍・足利義昭に殿中御掟5か条を追加。義昭の権力と行動を制限する。信長は大名に上洛を促す書状も送るが、これに越前の朝倉義景ただひとりが応じず…信
.. show full overview
<ラインナップ>1570年
1月 信長、殿中御掟に5か条追加
2月 布部山の戦い
4月 金ヶ崎の戦い
6月 姉川の戦い
8月 今山の戦い
9月 石山合戦はじまる
<内容>
1570年1月、織田信長は15代将軍・足利義昭に殿中御掟5か条を追加。義昭の権力と行動を制限する。信長は大名に上洛を促す書状も送るが、これに越前の朝倉義景ただひとりが応じず…信長はこれを口実に、徳川家康とともに越前へ攻め込む。
ところが道中で、信長の義弟で同盟を結んでいた浅井長政が突然裏切り、信長・家康軍の背後から攻め込む。信長、家康、そして信長軍の明智光秀、木下藤吉郎(秀吉)は敵軍に挟み撃ちにされる。危機を脱した信長・家康は体制を立て直し、浅井長政討伐のため近江に攻め込む。
「姉川の戦い」と呼ばれるこの一戦はどのような結果だったのか…。
さらに信長は新たな敵・本願寺と10年にわたる戦いが始まる。
<ラインナップ>
1570年9月 石山合戦始まる
朝倉・浅井連合軍が近江に侵攻
1570年10月 徳川家康と上杉謙信が同盟
長島で一向一揆が蜂起
1571年9月 織田信長が比叡山を焼き討ち
<内容>
「天下布武」を目指す織田信長が抵抗勢力に囲まれていく1年を紐解く。
1570年9月、三好三人衆が摂津国に侵攻。信長は摂津に出陣し戦いを始めるものの、突如大坂(石山)本願寺が信長軍を攻撃。これをきっかけに信長と本願寺の10年におよぶ戦い(石山合戦)が始まる。当時の本願寺はどのような組織で、なぜ信長軍を攻撃し始めたのか?
直後に朝倉義景・浅井長政の連合軍が近江に侵攻。さらに伊勢国(三重県)の長島では一向一揆が起こる。四面楚歌となった信長は、どうやってこの危機を乗り切ったのか?
そして1571年9月、信長は“日本仏教の母なる山”と呼ばれる比叡山を焼き討ち。数千人を虐殺としたと言われ、当時の人々に衝撃を与えた。なぜ信長は比叡山を焼き討ちしたのか…新たな史実を紹介。
〈ラインナップ 1572年〉
・大坂本願寺の顕如が武田信玄に支援要請
・織田信長が「17か条の異見書」提出
・信玄による「西上作戦」
・「三方ヶ原の戦い」
〈内容〉
武田信玄が徳川領に侵攻。信玄と徳川家康による“戦国最強”の決戦、「三方ヶ原の戦い」が始まる。
信玄はなぜ家康と戦うことになったのか?家康と同盟関係にあった織田信長がとった行動は?家康最大の危機と言われる「三方ヶ原の戦い」に迫る!
〈ラインナップ 1572年〉
・大坂本願寺の顕如が武田信玄に支援要請
・織田信長が「17か条の異見書」提出
・信玄による「西上作戦」
・「三方ヶ原の戦い」
〈内容〉
武田信玄が徳川領に侵攻。信玄と徳川家康による“戦国最強”の決戦、「三方ヶ原の戦い」が始まる。
信玄はなぜ家康と戦うことになったのか?家康と同盟関係にあった織田信長がとった行動は?家康最大の危機と言われる「三方ヶ原の戦い」に迫る!
〈ラインナップ〉 1573年
2月 15代・足利義昭が織田信長討伐で挙兵
4月 上洛した信長が上京を焼き払う
武田信玄が死去
7月 信長 対 義昭「槇島城の戦い」
「元亀」から「天正」に改元
〈内容〉
信長との関係が悪化していた15代将軍・足利義昭がついに挙兵。義昭は、なぜ信長と敵対する道を選んだのか?一度は天皇からの勅命で和睦した信長と義昭。天皇はなぜ2人の対決に関与したのか?
一方「三方ヶ原の戦い」に勝利し、西に向けて進軍していた武田信玄が急死。信玄の死因や後継者は?
室町幕府が滅亡に向かう半年間の信長と15代将軍・義昭の戦いを紐解いていく。
<ラインナップ>1573~1574年
・朝倉義景が自害
・浅井長政が自害
・織田信長が「蘭奢待」を切り取る
・信長が長島一向一揆を鎮圧
<内容>
室町幕府を事実上滅亡させた織田信長。
“反信長勢力”を次々と崩壊させ、天下統一に向け前進していく。
信長は朝倉義景を攻撃、朝倉家を滅亡に追い込む。その後、浅井長政を攻撃し、浅井親子を自害させる。信長は正
.. show full overview
<ラインナップ>1573~1574年
・朝倉義景が自害
・浅井長政が自害
・織田信長が「蘭奢待」を切り取る
・信長が長島一向一揆を鎮圧
<内容>
室町幕府を事実上滅亡させた織田信長。
“反信長勢力”を次々と崩壊させ、天下統一に向け前進していく。
信長は朝倉義景を攻撃、朝倉家を滅亡に追い込む。その後、浅井長政を攻撃し、浅井親子を自害させる。信長は正月の祝宴で、朝倉義景・浅井親子の「ドクロ」を金箔で装飾し、盃にして酒を飲んだ…といわれているが真相はどうだったのだろうか。
さらに伊勢・長島の一向一揆を鎮圧。女性・子どもを含む2万人を虐殺したと言われているが、なぜ信長はそこまでしたのか…。信長が天下統一に向け前進する1573年後半からの1年の様子を見ていく。
【ラインナップ 1575年】
5月1日 武田勝頼軍が長篠城を包囲
5月13日 織田信長が徳川家康を助けるため長篠に向かう
5月20日 家康の家臣・酒井忠次が長篠城を包囲していた武田の砦を攻略
5月21日
.. show full overview
【ラインナップ 1575年】
5月1日 武田勝頼軍が長篠城を包囲
5月13日 織田信長が徳川家康を助けるため長篠に向かう
5月20日 家康の家臣・酒井忠次が長篠城を包囲していた武田の砦を攻略
5月21日 長篠・設楽原の戦い
【内容】
1575年5月21日に起こった「長篠・設楽原の戦い」。信長・家康の連合軍と武田勝頼軍が激突。
近年この戦いに関する通説が次々と覆されている。これまで教科書には「織田軍の鉄砲隊が三段撃ちを駆使して、武田軍の最強騎馬軍団を打ち破った」と書かれていたが、真相は…? 最近注目されているのは、勝敗を分けたのは「鉄砲玉」という説。織田軍と武田軍、両者の鉄砲玉にどんな違いがあったのか?
日本のいくさの歴史を一変させたと言われる「長篠・設楽原の戦い」を紐解いていく。
<ラインナップ 1575~1576年>
・織田信長、越前一向一揆との戦い
・信長主催、「千利休の茶会」
・信長、従三位権大納言に任命される
・安土城の築城を開始
<内容>
今回は、織田信長の快進撃が続く1575年~76年。
1575年8月、信長は越前に侵攻し、一向一揆勢との戦いが始まる。この戦いで信長は、一揆勢1万人以上の首を斬ったとされているが、何故そこまで残虐なことをしたのか?
翌年1月、信長は安土城の築城を開始。信長が琵琶湖の東岸に城を作った狙いは?近世城郭の先駆けと言われる安土城とは、一体どのような城だったのか…
<ラインナップ 1576~1578年>
・織田軍vs毛利軍「木津川口の戦い」
・織田軍vs上杉軍「手取川の戦い」
・織田軍vs松永久秀「信貴山城の戦い」
・上杉謙信が急逝
<内容>
信長に危機が訪れる。
15代将軍・足利義昭が鞆幕府を立ち上げるが、実態は?
義昭が各地の大名に反信長の決起を呼びかけ、毛利輝元や上杉謙信らが第二次信長包囲網を構成。信長は包囲網との戦いに追われることに…。
<ラインナップ 1576~1578年>
・織田軍vs毛利軍「木津川口の戦い」
・織田軍vs上杉軍「手取川の戦い」
・織田軍vs松永久秀「信貴山城の戦い」
・上杉謙信が急逝
<内容>
信長に危機が訪れる。
15代将軍・足利義昭が鞆幕府を立ち上げるが、実態は?
義昭が各地の大名に反信長の決起を呼びかけ、毛利輝元や上杉謙信らが第二次信長包囲網を構成。信長は包囲網との戦いに追われることに…。
<ラインナップ 1578~1580年>
・第二次木津川口の戦い
・織田信長軍、第二次包囲網を“鉄甲船” で撃破
・家康の長男・松平信康 切腹事件
・石山合戦が終結
今回は織田信長が、第二次包囲網を撃破していく様子を中心に見ていく。
「第二次木津川口の戦い」で活躍した織田信長軍の“鉄甲船”
.. show full overview
<ラインナップ 1578~1580年>
・第二次木津川口の戦い
・織田信長軍、第二次包囲網を“鉄甲船” で撃破
・家康の長男・松平信康 切腹事件
・石山合戦が終結
今回は織田信長が、第二次包囲網を撃破していく様子を中心に見ていく。
「第二次木津川口の戦い」で活躍した織田信長軍の“鉄甲船” 。たった6隻で600隻の毛利水軍を撃破した“鉄甲船”とは、一体どのような船だったのか。
そして、10年続いた石山合戦がついに終結。信長はどのように本願寺を屈服させたのか。また1579年には徳川家康の命令で正室・築山殿が殺害され、嫡男の信康が切腹するという痛ましい事件が起こる。
<ラインナップ 1580~1582年>
・織田信長 正親町天皇の前で馬揃え
・羽柴秀吉&黒田官兵衛による「三大城攻め」
・信長 武田勝頼を倒す
・信長 明智光秀に長宗我部元親討伐を命令
<内容>
畿内・北陸を支配し、ひとまず京に平和をもたらした信長。正親町天皇の前で大規模な軍事パレード・馬揃えを開催し、室町幕府に代わって信長が実権を握ったことを世に知らしめた。そして最大のライバル・武田勝頼との最後の戦いへ…。
信長に毛利攻めを任されていた秀吉。「三大城攻め」と語り継がれる軍師・官兵衛との奇策とは。
一方信長は、明智光秀に長宗我部元親の討伐命令を下す。それは、信長と元親の関係を取り持ってきた光秀の働きを否定するものだった…。そして信長は光秀に、秀吉の援軍のため備中への出陣を命じる。
<1582年>
・織田信長、武田氏を滅ぼし安土へ凱旋
・正親町天皇から信長に「三職退任」の申し入れ
・信長上洛し、本能寺入り
・「本能寺の変」で 織田信長死す
<内容>
今回は日本の歴史上最大の謎と言われる「本能寺の変」。
信長の重臣・明智光秀が謀反を起こし、天下統一目前で信長は命を落とす。死を覚悟した信長がとった行動とは!?また、諸説語られる“光秀の動機”。その真相とは?さらに、本能寺に突撃した光秀方の武士による、別の視点からも「本能寺の変」を紐解いていきます。
<1582年>
・織田信長、武田氏を滅ぼし安土へ凱旋
・正親町天皇から信長に「三職退任」の申し入れ
・信長上洛し、本能寺入り
・「本能寺の変」で 織田信長死す
<内容>
今回は日本の歴史上最大の謎と言われる「本能寺の変」。
信長の重臣・明智光秀が謀反を起こし、天下統一目前で信長は命を落とす。死を覚悟した信長がとった行動とは!?また、諸説語られる“光秀の動機”。その真相とは?さらに、本能寺に突撃した光秀方の武士による、別の視点からも「本能寺の変」を紐解いていきます。
<1582年 明智光秀の三日天下>
・徳川家康の「伊賀越え」
・羽柴秀吉の“中国大返し”
・光秀が安土城を無血開城
・秀吉 対 光秀「山崎の戦い」
<内容>
「本能寺の変」で織田信長を討った明智光秀。
その後、光秀はどんな行動をとっていたのか…
「光秀の三日天下」を紐解きます。
また、本能寺の変を知った家康が、三河まで決死の逃避行をした「伊賀越え」の実態や、秀吉が光秀を討つためにおこなった大移動「中国大返し」の謎に迫ります。
<1582年 明智光秀の三日天下>
・徳川家康の「伊賀越え」
・羽柴秀吉の“中国大返し”
・光秀が安土城を無血開城
・秀吉 対 光秀「山崎の戦い」
<内容>
「本能寺の変」で織田信長を討った明智光秀。
その後、光秀はどんな行動をとっていたのか…
「光秀の三日天下」を紐解きます。
また、本能寺の変を知った家康が、三河まで決死の逃避行をした「伊賀越え」の実態や、秀吉が光秀を討つためにおこなった大移動「中国大返し」の謎に迫ります。
<1582年>
・「本能寺の変」の17日後、安土城炎上
・秀吉が織田信孝と安土入り
・「天正壬午の乱」が勃発
・「清洲会議」で信長亡き後の主導権争い
・大徳寺で信長の葬儀
<内容>
今回は、織田信長、明智光秀がいなくなった後、羽柴秀吉が天下統一を見据え、「清洲会議」などで主導権を握っていく様子を見ていく。
「本能寺の変」から約2週間後、信長時代の象徴ともいえる安土城が炎上する。いったい誰が何のために火をつけたのか。信長の死を機に、かつて武田信玄が治めていた領地が混乱すると、北条・上杉・徳川による争奪戦が始まった。そこに登場するのが「真田家」だ。旧武田領は誰が治めることになるのか…
<1582~1583年 >
・羽柴秀吉vs柴田勝家 対立が決定的に
・秀吉が三法師奪還のため挙兵
・柴田勝家が挙兵 賤ケ岳の戦いへ
・柴田勝家・市が自害
・秀吉、大坂城築城開始
<1582~1583年 >
・羽柴秀吉vs柴田勝家 対立が決定的に
・秀吉が三法師奪還のため挙兵
・柴田勝家が挙兵 賤ケ岳の戦いへ
・柴田勝家・市が自害
・秀吉、大坂城築城開始
<1584~1585年>
・小牧・長久手の戦い
・沖田畷の戦い
・伊達政宗が家督を相続
・織田信雄が秀吉に臣従
<内容>
今回は、羽柴秀吉と徳川家康の唯一の直接対決となった「小牧・長久手の戦い」。8か月に及ぶこの戦いの開戦のきっかけとは?そして、意外な形で迎える両雄の戦いの結末は、どのようなものだった?「関ヶ原の戦い」と並び、天下分け目の決戦と言われる「小牧・長久手の戦い」をじっくりと紐解いて行きます。
<1584~1585年>
・小牧・長久手の戦い
・沖田畷の戦い
・伊達政宗が家督を相続
・織田信雄が秀吉に臣従
<内容>
今回は、羽柴秀吉と徳川家康の唯一の直接対決となった「小牧・長久手の戦い」。8か月に及ぶこの戦いの開戦のきっかけとは?そして、意外な形で迎える両雄の戦いの結末は、どのようなものだった?「関ヶ原の戦い」と並び、天下分け目の決戦と言われる「小牧・長久手の戦い」をじっくりと紐解いて行きます。
<1585~1586年>
・羽柴秀吉が関白に叙任
・第一次上田合戦
・秀吉が「禁中大茶会」を開催
・家康の重臣・石川数正が秀吉側に出奔
・家康が秀吉の臣下に下る
・秀吉が太政大臣に就任→「豊臣秀吉」を名乗り始める
<内容>
今回は関白となった秀吉が全国平定に向かう動きを紐解く。
秀吉は権威をもって各地の反抗勢力を降伏させる。さらに、家康を家臣にする
.. show full overview
<1585~1586年>
・羽柴秀吉が関白に叙任
・第一次上田合戦
・秀吉が「禁中大茶会」を開催
・家康の重臣・石川数正が秀吉側に出奔
・家康が秀吉の臣下に下る
・秀吉が太政大臣に就任→「豊臣秀吉」を名乗り始める
<内容>
今回は関白となった秀吉が全国平定に向かう動きを紐解く。
秀吉は権威をもって各地の反抗勢力を降伏させる。さらに、家康を家臣にするため、あの手この手で迫っていくのだが、秀吉が使った策とは…?
一方の家康は、長年にわたり仕えていた重臣・石川数正が秀吉側に寝返るという危機を迎える。数正はなぜ寝返ったのか…?
<1587年>
・豊臣秀吉 九州征伐へ出陣
・秀吉が九州を平定
・伴天連追放令 発布
・聚楽第が完成
・北野大茶会 開催
・足利義昭 14年ぶりの帰京
<内容>
関白・太政大臣になり、政治のトップに登り詰めた豊臣秀吉。天下統一まで、残るは九州と関東・東北。秀吉は自ら20万の大軍を率いて出陣。兵をほとんど失うことなく九州を平定する。
大坂城に戻った秀吉は、京に新しく築城した「聚楽第」に移り住む。大阪と京、2つの拠点を持った秀吉の思惑とは…?そして秀吉は京の人々に向けて大規模な茶会を開催。秀吉肝いりの茶会だったが、意外な結末を迎えることに。そしてこの年、織田信長に京から追放されていた15代将軍足利義昭が、秀吉の計らいで14年ぶりに帰京。秀吉の家臣となった義昭は、ついに征夷大将軍の職を朝廷に返上する。
<1587~1589年>
・上杉景勝が越後を統一
・加藤清正と小西行長が肥後に向かう
・後陽成天皇が聚楽第に行幸
・豊臣秀吉が刀狩令・海賊停止令がを出す
・豊臣秀吉の嫡男・鶴松が誕生
<内容>
豊臣秀吉の絶頂期。
栄華の象徴ともいえる、逸話の数々に秘められた秀吉の思いを紐解いていく。
秀吉が第107代・後陽成天皇を聚楽第に招き、公家・戦国大名ら
.. show full overview
<1587~1589年>
・上杉景勝が越後を統一
・加藤清正と小西行長が肥後に向かう
・後陽成天皇が聚楽第に行幸
・豊臣秀吉が刀狩令・海賊停止令がを出す
・豊臣秀吉の嫡男・鶴松が誕生
<内容>
豊臣秀吉の絶頂期。
栄華の象徴ともいえる、逸話の数々に秘められた秀吉の思いを紐解いていく。
秀吉が第107代・後陽成天皇を聚楽第に招き、公家・戦国大名らが一堂に会した大イベント。秀吉の真の狙いは…?
秀吉の有名な政策の1つ、「刀狩令」。農民たちから武器を取り上げることに、どんな意味が…?
さらに、53歳と高齢だった秀吉に嫡男・鶴松が誕生。念願の跡継ぎの誕生に、秀吉の喜びはどれほどだったのか?
<1590年3月〜7月>
・摺上原の戦い
・豊臣秀吉が北条氏に“宣戦布告”
・小田原合戦
・秀吉が石垣山一夜城を築城
<内容>
豊臣秀吉の天下統一への総仕上げ!秀吉と北条氏が激突した「小田原合戦」に迫る。
一体なぜ、両者は戦うことになったのか?そして秀吉は難攻不落と言われた小田原城攻略へ…ある驚きの方法で城を攻める。さらにこの時、秀吉が一夜にして城を築いたと伝わる、“一夜城伝説”が生まれる。
<1590年3月〜7月>
・摺上原の戦い
・豊臣秀吉が北条氏に“宣戦布告”
・小田原合戦
・秀吉が石垣山一夜城を築城
<内容>
豊臣秀吉の天下統一への総仕上げ!秀吉と北条氏が激突した「小田原合戦」に迫る。
一体なぜ、両者は戦うことになったのか?そして秀吉は難攻不落と言われた小田原城攻略へ…ある驚きの方法で城を攻める。さらにこの時、秀吉が一夜にして城を築いたと伝わる、“一夜城伝説”が生まれる。
<1590年~>
・徳川家康が“国替え”で関東へ
・豊臣秀吉が奥州仕置で天下統一
・豊臣秀長が病死
・千利休が切腹
・秀吉が「唐入り」構想を発表
・「太閤・豊臣秀吉」が誕生
<内容>
天下統一まで、残るは奥州のみとなった秀吉。秀吉は自ら奥州まで赴き、大名たちを臣従させて天下統一を完成させる。そんな中、秀吉は弟・秀長、嫡男・鶴松を病気で亡くす。2人の死
.. show full overview
<1590年~>
・徳川家康が“国替え”で関東へ
・豊臣秀吉が奥州仕置で天下統一
・豊臣秀長が病死
・千利休が切腹
・秀吉が「唐入り」構想を発表
・「太閤・豊臣秀吉」が誕生
<内容>
天下統一まで、残るは奥州のみとなった秀吉。秀吉は自ら奥州まで赴き、大名たちを臣従させて天下統一を完成させる。そんな中、秀吉は弟・秀長、嫡男・鶴松を病気で亡くす。2人の死は秀吉にどのような影響を及ぼしたのか?さらに、側近だった千利休に、秀吉が切腹を命じた背景は?
一方の家康は、関東に領国を移し、江戸を本拠地に定める。家康はどのように江戸を発展させていくのか?
<1592年1月~1593年4月>
・朝鮮出兵
・文禄の役
・正親町上皇(106代天皇)崩御
今回は天下統一を果たした豊臣秀吉が中国・明の侵攻をもくろみ、その足掛かりとして朝鮮に出兵した「文禄の役」を詳しく見ていく。
朝鮮出兵の拠点となった肥前国の名護屋には20万もの軍勢が集結、巨大都市が誕生した。この名護屋とはどんな町だったのか…。
文禄の役が始ま
.. show full overview
<1592年1月~1593年4月>
・朝鮮出兵
・文禄の役
・正親町上皇(106代天皇)崩御
今回は天下統一を果たした豊臣秀吉が中国・明の侵攻をもくろみ、その足掛かりとして朝鮮に出兵した「文禄の役」を詳しく見ていく。
朝鮮出兵の拠点となった肥前国の名護屋には20万もの軍勢が集結、巨大都市が誕生した。この名護屋とはどんな町だったのか…。
文禄の役が始まると日本軍は快進撃を続け、わずか3週間ほどで首都・漢城を攻略、2か月後には加藤清正が王朝最北端まで到達する。なぜ、これほど早く進軍できたのだろうか?
秀吉は朝鮮王朝、明、日本の統治を考えていた。どのような構想だったのか。「文禄の役」は明軍が本格的に参戦してくると、状況が一変する。厭戦気分が広がり休戦へ…だが、休戦を実現した方法は驚きのものだった。
<1593~1596年>
・豊臣秀吉が明の使節と対面
→「7か条の講和条件」を出す
・豊臣秀次(28)が自害
・大地震で指月伏見城が倒壊
・秀吉が大坂城で明の勅使と対面
<内容>
日本と明の和平交渉は一体どうなるのか…和平交渉に臨んだ豊臣秀吉は明の使者に対して「講和条件」を示す。しかし、この明の使者は小西行長が仕組んだ「ニセモノ」だった。
国内で
.. show full overview
<1593~1596年>
・豊臣秀吉が明の使節と対面
→「7か条の講和条件」を出す
・豊臣秀次(28)が自害
・大地震で指月伏見城が倒壊
・秀吉が大坂城で明の勅使と対面
<内容>
日本と明の和平交渉は一体どうなるのか…和平交渉に臨んだ豊臣秀吉は明の使者に対して「講和条件」を示す。しかし、この明の使者は小西行長が仕組んだ「ニセモノ」だった。
国内では秀吉に待望の男子、後の秀頼が誕生。諦めかけていた跡継ぎの誕生は、のちに大きな事件を引き起こす…。さらに関白職を継ぎ、後継者となっていた、秀吉の甥・豊臣秀次が切腹。ひと月後には秀次の妻子ら39人が処刑され、京の聚楽第も破壊される。秀次が関係する、あらゆるものが根絶やしにされた、いわゆる「秀次事件」。長年、謎とされてきたこの事件の真相とは?
<1596年~1598年>
・第二次朝鮮出兵→慶長の役
・蔚山城の戦い
・醍醐の花見
・豊臣秀吉が62歳で死去
<内容>
豊臣秀吉は第二次朝鮮出兵「慶長の役」を決行。秀吉が、再び朝鮮へ出兵した目的とは?
さらに秀吉は、京都で盛大な花見「醍醐の花見」を開催。朝鮮半島で戦いが続く中、なぜ秀吉は豪華な花見を開いたのか…。そして花見から間もなく、秀吉は62年の生涯を閉じる。果たして、秀吉の最期とはどのようなものだったか?
<1596年~1598年>
・第二次朝鮮出兵→慶長の役
・蔚山城の戦い
・醍醐の花見
・豊臣秀吉が62歳で死去
<内容>
豊臣秀吉は第二次朝鮮出兵「慶長の役」を決行。秀吉が、再び朝鮮へ出兵した目的とは?
さらに秀吉は、京都で盛大な花見「醍醐の花見」を開催。朝鮮半島で戦いが続く中、なぜ秀吉は豪華な花見を開いたのか…。そして花見から間もなく、秀吉は62年の生涯を閉じる。果たして、秀吉の最期とはどのようなものだったか?
<1598年~1600年>
・朝鮮出兵が終結
・徳川家康が“掟破”を糾弾される
・“石田三成襲撃”事件
・“家康暗殺計画”が発覚
・オランダ船「リーフデ号」が日本に漂着
<内容>
秀吉の死をうけて、天下取りへと踏み出す徳川家康。ところが家康は、一緒に政権運営を担う大老や奉行から、ある掟破りを糾弾されてしまう。その掟破りとは?
ほどなくして家康暗殺計画
.. show full overview
<1598年~1600年>
・朝鮮出兵が終結
・徳川家康が“掟破”を糾弾される
・“石田三成襲撃”事件
・“家康暗殺計画”が発覚
・オランダ船「リーフデ号」が日本に漂着
<内容>
秀吉の死をうけて、天下取りへと踏み出す徳川家康。ところが家康は、一緒に政権運営を担う大老や奉行から、ある掟破りを糾弾されてしまう。その掟破りとは?
ほどなくして家康暗殺計画の噂が流れる。家康はこの事態にどう対処したのか?そんな中、家康は豊臣秀頼のいる大坂城に居を移す。そこには秀吉の正室・北政所の力添えがあったとされるが、2人はどんな関係だった?
<1600年>
6月16日 徳川家康、上杉景勝討伐へ出陣
7月上旬 石田三成が蜂起/佐和山謀議西軍が結成
7月17日 西軍宣戦布告/内府違いの条々
7月19日 西軍が先制攻撃/伏見城の戦い
7月25日 小山評定/家康が東軍を結成
8月23日 東西両軍が激突/前哨戦 岐阜城の戦い
9月1日
.. show full overview
<1600年>
6月16日 徳川家康、上杉景勝討伐へ出陣
7月上旬 石田三成が蜂起/佐和山謀議西軍が結成
7月17日 西軍宣戦布告/内府違いの条々
7月19日 西軍が先制攻撃/伏見城の戦い
7月25日 小山評定/家康が東軍を結成
8月23日 東西両軍が激突/前哨戦 岐阜城の戦い
9月1日 家康江戸城を出陣…西へ
<内容>
関ケ原の戦いの3か月前—
徳川家康は豊臣政権安定のためとして、上杉景勝討伐のために会津へ向かう。その隙に石田三成が、家康討伐を宣言し、毛利輝元を総大将に西軍が結成される。三成の挙兵を知った家康は、上杉征伐を中止し、三成と戦うことを宣言。すると秀吉家臣の武将が「家康に付く」と結束し、東軍が結成される。実は東軍結成の裏で、家康の老獪な策略が…。
大坂城の淀殿と豊臣秀頼は、あくまで中立の立場を貫く。
東軍の先発隊に攻められ、西軍の拠点・岐阜城はわずか1日で落城。西軍は関ケ原の入り口にある大垣城を本陣と定め、戦力を集中させる。対する東軍は江戸から家康が、宇都宮から秀忠がそれぞれ西に向かう。
<1600年9月~10月>
9月14日 家康が赤坂(大垣市)に到着/激しい情報戦が展開
9月15日 関ケ原の戦い
9月20日 秀忠が遅れて到着
9月27日 家康と豊臣秀頼が大坂城で謁見
10月11日 石田三成が処刑
日本中の武将が、徳川家康の率いる東軍と石田三成率いる西軍に分かれて戦った「関ケ原の戦い」。
総勢約17万の兵が参戦した戦国時代最大級の規模
.. show full overview
<1600年9月~10月>
9月14日 家康が赤坂(大垣市)に到着/激しい情報戦が展開
9月15日 関ケ原の戦い
9月20日 秀忠が遅れて到着
9月27日 家康と豊臣秀頼が大坂城で謁見
10月11日 石田三成が処刑
日本中の武将が、徳川家康の率いる東軍と石田三成率いる西軍に分かれて戦った「関ケ原の戦い」。
総勢約17万の兵が参戦した戦国時代最大級の規模の戦いにも関わらず、わずか半日で東軍の勝利に終わる。その裏にあった、家康ら東軍による様々な調略とは…?
また、小早川秀秋に寝返りを促すため家康が撃ったとされる「問い鉄砲」が、実は無かったのではないかとされる学説や、徳川秀忠が戦いに間に合わなかったという意外な真相など、近年の新しい学説を交えて「関ケ原の戦い」の真実に迫る。
<1600〜1605年>
・徳川家康「関ケ原の戦い」の戦後処理
・家康が征夷大将軍に就任
→江戸幕府を開く
・豊臣秀頼と家康の孫・千姫が結婚
・竹千代(のちの3代将軍・家光)が誕生
・徳川秀忠が2代将軍に就任
<内容>
徳川家康が征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開く。この動きを、豊臣秀頼とその母・淀殿はどのような思いで見ていたのか?家康は「関ケ原の戦い
.. show full overview
<1600〜1605年>
・徳川家康「関ケ原の戦い」の戦後処理
・家康が征夷大将軍に就任
→江戸幕府を開く
・豊臣秀頼と家康の孫・千姫が結婚
・竹千代(のちの3代将軍・家光)が誕生
・徳川秀忠が2代将軍に就任
<内容>
徳川家康が征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開く。この動きを、豊臣秀頼とその母・淀殿はどのような思いで見ていたのか?家康は「関ケ原の戦い」に勝利したことで、天下統一を果たしたイメージがあるが、実はまだまだ日本全体を統一したわけではなかった…。
今回は、徳川と豊臣の関係を中心に紐解いていく。
<1607~1614年>
・大御所・徳川家康(66) 駿府城に入る
・家康の外交 朝鮮と国交回復
・薩摩が琉球王国を制圧
・家康(70)と豊臣秀頼(19)が二条城で会見
・家康が大名たちに臣従を誓約させる
・方広寺鐘銘事件が勃発
<内容>
秀忠に将軍を譲り、大御所となった徳川家康。江戸幕府は江戸と駿府の2カ所を拠点にして、どんな政治を行っていた?
家康は外交にも力を入れ、朝鮮との国交回復実現や琉球王国の制圧を命令。
さらに、70歳の家康と19歳に成長した秀頼が会見。約8年ぶりに対面した2人の心境は?そして「大坂の陣」の引き金となった「方広寺鐘銘事件」が起こる・・・今回は家康が、なぜ豊臣討伐を決断するに至ったのかに迫る。
<1614年9月~1615年1月>
・豊臣秀頼、淀殿が戦の準備を始める
・徳川家康が「豊臣征伐」を諸将に命じる
・真田信繁(幸村)など「牢人」10万人が大坂城に集まる
・大坂「冬の陣」が始まる
・大坂冬の陣
.. show full overview
<1614年9月~1615年1月>
・豊臣秀頼、淀殿が戦の準備を始める
・徳川家康が「豊臣征伐」を諸将に命じる
・真田信繁(幸村)など「牢人」10万人が大坂城に集まる
・大坂「冬の陣」が始まる
・大坂冬の陣 最大の激戦「真田丸の戦い」
・徳川軍が大坂城に「砲撃」開始
・大坂城の「堀埋め立て」などの条件で和睦成立
・徳川方が大坂城の堀の埋め立てを完了
<内容>
豊臣家を押さえ込みたい家康と豊臣の天下が戻ってくると信じる秀頼、淀殿が直接激突する「大坂冬の陣」。
駿府で大御所政治を始めていた家康は海外から最新の大砲を取り寄せていた。その狙いとは?
大坂冬の陣で豊臣方は淀殿の意向を汲んで〝籠城〟を選択する。なぜ淀殿は籠城を決め込んだのか?
持久戦が続く冬の陣…その中で徳川軍が大敗した「真田丸の戦い」。真田幸村が造ったとされる「真田丸」とは?1か月ほどで大坂冬の陣は終結。和睦は「堀の埋め立て」といった圧倒的に不利な条件があった。淀殿はなぜこの条件を受け入れたのか?
<1615年>
・徳川家康が豊臣方に最後通告→諸大名が京に集結「徳川軍」結成
・徳川軍が大坂へ出陣
・道明寺の戦い
・八尾・若江の戦い
・天王寺・岡山の戦い
・豊臣秀頼、淀殿が自害→大阪城落城
<内容>
「大坂冬の陣」が終わった翌年、大坂城内では徳川方との和睦に反対する勢力が再軍備を始める。この動きを知った家康は、豊臣方に最後通告を出すが、これを拒否
.. show full overview
<1615年>
・徳川家康が豊臣方に最後通告→諸大名が京に集結「徳川軍」結成
・徳川軍が大坂へ出陣
・道明寺の戦い
・八尾・若江の戦い
・天王寺・岡山の戦い
・豊臣秀頼、淀殿が自害→大阪城落城
<内容>
「大坂冬の陣」が終わった翌年、大坂城内では徳川方との和睦に反対する勢力が再軍備を始める。この動きを知った家康は、豊臣方に最後通告を出すが、これを拒否。家康は最後の戦いのため、諸大名へ出陣を命令する。
5月6日、大坂城へ向かう徳川軍に、数で劣る豊臣軍は奇襲をかけるが失敗。あとがない豊臣軍は、全勢力を城の南側に展開。
5月7日、最後の戦いが始まり、豊臣軍の真田信繁が家康本陣に迫るが、家康を討ち取ることはできず、信繁は戦死。指揮官を失った豊臣軍は大坂城に撤退し、徳川軍が迫る。
翌8日、秀頼と淀殿が自害して豊臣家は滅亡。大坂城は落城する。「大坂夏の陣」の終結で、応仁の乱以来148年にわたった戦国時代は終焉し、太平の時代を迎える。
そしていよいよ、4月6日からは「関口宏の一番新しい江戸時代」がスタートする!
If there are missing episodes or banners (and they exist on TheTVDB) you can request an automatic full show update:
Request show update
Update requested